ホセア書講解

15.ホセア書6章7節-7章7節『神なき者の現実』

6章7-7章2節には、イスラエルの罪を叱責する預言者ホセアの言葉が断片的に集められており、その歴史に対する告発がなされている。これらに例示される罪のゆえに、神は、もはや民を助けることができないという結論が下されている点で、6節までの部分と関連があるが、これらの預言は、形式的にも内容的にも6節までのものとは異なっており、ホセアが別の機会に述べたものであろう。これらの預言の言葉は、回顧的に罪の目録をあげる形がとられていること、イスラエルと神との契約のあり方が前提され指向されていること、運命の転換を定型的な表現で暗示されていること(6:11)、またそれと関連して、決定された審きの焦眉の急なることを神の今(7:2)によって示唆していることは、ホセアがヤーウェ契約の伝統と観念に立ち帰り、そこから語っていることを示している。そして、この伝承の担い手は、イスラエルにおいては専ら契約祭儀であるから、祭儀の中で語られたものと思われる。

ホセアは、これらの叱責の言葉の中で、イスラエルが過去に様々な場所で行った特別な罪、その一つ一つの悪行を思い起こさせようとしている。しかし、ホセアが叱責するこれらの罪は、歴史上のどの出来事を指していっているのかは、今日において、もはや確定することはできない。そのことが、解釈を難しくしている。ここに選ばれた場所は、東ヨルダンからシケムを経てベテルへと向かう巡礼を念頭においてのことであろうと思われる。

最初に挙げられているのは、アダムにおける民の不信と契約破棄である。アダムという地名は、ヨシュア記3章16節によれば、ヨルダン川の東岸の浅瀬の側にある町のことであろう。民の不信と契約破棄の内容が、具体的にどの時期のどういう出来事を指しているのかは、何も分からない。ただ、ホセアが述べようとしているのは、神への約束の破棄が、他のすべての拘束と義務を廃棄することとなり、そこからすべての悪行が平気で犯されることになり、一切の秩序崩壊の原因となるということである。

言及されている第二、第三の叱責もこの点から理解される必要がある。

第二は、ギレアドに関するものであるが、この名はヨルダンの東の地方、または山地を指しているものと思われる。言及される流血の罪について、ギレアドに隣接するアモンの神ミルコムに、子どもをいけにえとしてささげた罪(レビ20:2,列上11:5,33)か、あるいはギレアド人によるエフライム人虐殺(士師12:1-6)のことがほのめかされていると解するが学者もいるが、これも具体的には何も分からない。

そして、第三にホセアは、契約破棄の無軌道さが、祭司階級にも及んでいた事実を示し、これを叱責している。祭司のことがあげられているのは、祭儀上の違反が考えられているのかもしれない。それは、シケム周辺で人々を悩ましていた強盗団に比べられるほどのものであったということだけが、明らかにされている。

そして、ホセアが契約破棄の観点から取り上げている最後の罪は、最も深刻な罪の問題であった。それは、「イスラエルの家」において行われていた「恐るべきこと」といわれている。「イスラエルの家」とは、この場合ベテルにある北王国の神殿を指していわれている。ベテルにある国の聖所に広まっている堕落・不信が、エフライムの犯す「姦淫」として語られている。イスラエルは、神の家(ベート・エル)と呼ばれたところを、悪の家(ベート・アベン)にしてしまった。そこでは、偶像礼拝が行われ、バアル祭儀において行われる神殿娼婦による売春が、公然と行われていた。しかし、ホセアは、ヤロブアム1世が、金の子牛の像をそこに据えたことを言っているのであろう(列上12:28以下)。

このようにホセアは、過去のイスラエルの罪を一つ一つ取り出し、イスラエルの契約破棄と、その背信の罪を明らかにした上で、全体を総括し、そこから神の判決を導き出す。契約祭儀において、神は民を救い、民が罪に捕らえられているのを解放しようとする神の意志を示される。そして、この契約締結における神の恵みの約束は、どのようなことがあっても、決して廃棄されることはない。今もなお、変わることなく存続している。神の側からするならば、契約関係は、依然として効力を持ち、存続している。そして神は、イスラエルに繰り返し憐れみを示し、恵もうとしてきた。しかし、イスラエルは、この神の恵みの御手を覚えず、背信の罪を犯し続けてきた。それゆえ、神の憐れみは、イスラエルの罪のため妨げられ、神が助けと考えていた(契約)が、その意思に反する結果をイスラエルにもたらすことになった、とホセアは告げる。

神とイスラエルの関係は、どこまでも契約の約束に基づく。その関係は、契約に対する互いの誠実(ヘセド)を前提にして成り立つ。真理(エメト)は、契約の履行・不履行において明らかにされるものであった。神とイスラエルの関係は、この真理においてしか成り立たないものであるゆえに、神の救いの意思は、常に先ず、人間の本質を明らかにすることへと向かう。しかし、この場合にイスラエルに示される真理とは、神の前における人間の現実が如何なるものであるか、ということであり、その現実は罪でしかないということを、ホセアは明らかにする(2節)。イスラエルは、契約によって神の恵みの富に直面していた。にもかかわらず、罪のゆえに、神の富が、彼らを助けることができないものにしてしまっていた。この現実を、イスラエルは見誤っていた。神の前における自らの立場を、正しく見ることのできない彼らの振る舞いは、家に押し入る強盗、路上で道行く者を襲う追いはぎのように、神の富を盗むものでしかなかった。そんなイスラエルの現実が、民の間で見られる日常の盗みの温床になり、これに悩まされるのは当然である、という預言者の鋭い批判が向けられている。民に強く自覚を促させようとする、ホセアの致し方なき預言者としての苦渋の言葉が、ここにあるのを見る思いがする。

ヤーウェは「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている」(2節)と語るが、「彼ら(イスラエル)は少しも意に介さない。」ホセアは、ここにイスラエルの自己欺瞞を見る。イスラエルにとって、その罪は常に過ぎ去ってしまったこととして忘れようとする。「少しも意に介さない」のであるが、イスラエルにとって神は、永遠に現在される方として啓示されている。従って過去は、過ぎ去ってなくなるのでなく、常に神の現在の前に置かれている。イスラエルの行為と思考とは、神の前に積極的な意味を持っている。そのことをホセアは「今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にある」という言葉で告げている。神の現在において、イスラエルの全歴史は、審きと救いの下にある。その歴史が、神の審きに直面しているということで、イスラエルは現在、自分たちが危機に直面していることに気づかねばならない。その危機は、歴史の現実としての国の内部崩壊かもしれない。あるいは強国の侵略にさらされることかもしれない。しかし、その背後において歴史を支配し裁くのが、神であることをイスラエルは忘れている。ここに彼らの一番大きな罪と悲惨とがある。ホセアはこの現実を、イスラエルの危機として提示する。

7章3-7節においても、叱責の形式で神の言葉が語られる。しかし、これは、民に向けて語られているのではなく、イスラエルの王たちが王位に就くやり方を回顧して、非難する言葉が語られている。ホセアは、たった10年の間に、イスラエルの王ゼカルヤ、シャルム、ペカフヤが殺害者の手によって倒され(列下15:10,14,25)、その後、王に就いたペカの治世の初めに、打ち続いた王の殺害を想起しながら、この言葉を語ったと思われる。しかし、ホセアの目は、最近の王の歴史にだけ向けられているのでない。王国の歴史全体が、簒奪者によってその罪が膨れ上がり、ヤーウェの意思に反して打ち建てられたもの、とみている。

ホセアは3節においてまず、王の高官たちが「悪事」と「欺き」によって、王を喜ばせている現実を見つめ、それが、いかに神の意思に従うものでないかを示している。次にホセアは、簒奪者がどの様にその計画を実行したかを、4節で述べている。それは、「燃えるかまど」にたとえて語られている。醜い激しい政治的情熱は、一時的に王を喜ばせても陰険で、次の機会には、同じやり方で王の命を奪い、自ら王に就くための周到な準備の機会とされている。「燃えるかまど」とは、パンを焼くかまどであり、パン焼きがパンを焼く時、先ず釜を熱する。そして、練り粉が十分膨らむまで、釜を閉めておき、火をかき立てないでおく。そのパン焼きの姿を、ホセアは王の高官たちの陰謀の姿に喩えて描いているのである。

そのように密かに準備を進めて、やがて時が至ると、彼らは、王とその従者を宴会で酔わせて、判断力を失わせ無力にしておいて、それまで隠しておいた権力に対する熱情を爆発させる。それは、かまどをかき混ぜ炎々たる炎ですべてを焼き尽くすように、王の一族を殺害し、食い尽くす陰謀の姿である。

ホセアの目に王国の歴史は、低劣な政治的情熱の産物として見られている。それは、王たちを王位に就けるのを助けた精神が、また彼らを倒す、という繰り返しでしかない。自らを食い尽くす狂気の沙汰というほかない。このような革命の精神に、公義も正義もありえない。しかし、ホセアは「支配する者」を、公義を維持する義務を有する「裁き人」(ショーフェート)という言葉を意図的に用いている。それは、「裁き人」(ショーフェート)としての「支配者」が、公義と正義を行うときのみ民を正しく導くことができ、イスラエルをヤーウェの民として存立させることができる、ということを語るためである。「燃えるかまど」のような陰謀が繰り返す悲劇は、それが持つ内的循環の革命の原理となっていることであり、かまどの中が最終的に燃え尽き果て、灰しか残らないように、王権は次々に打ち倒され、王国全体は、最終的に滅ぶことになる。まさに自己崩壊の過程でしかない。ホセアは、このような支配者が神と何の関係も持っていないことを、当然であるという。「ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」という言葉は、ホセアの激しい葛藤を描いている。神は、人間の陰謀と悪意に満ちた制度そのものを自滅させる、そのことをホセアは見ている。人間の情熱、権力欲、憎しみが政治を支配するところ、民の歴史の中で神との結びつきが破られるところ、こうしたところにおいて、神は民をその情熱の赴くままに委ね、民自ら滅びていくに任せられる、とホセアはいう。

そしてそれは、政治の現実であって人間の現実でない、とホセアは言っているのでない。神無き者の現実のすべてが、政治という現実に如実に表われる姿を、ホセアは見て取っているのである。神との契約、神のそこに示される愛、その関係を第一としない者の最後の滅びの現実を、ここに見る信仰の目が、今日を生きる私たちに求められているのを覚えねばならない。

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