サムエル記講解

8.サムエル記上7章2-17節『救済者サムエル』

本章から15章にかけて物語の主題は「サムエルとサウル」に移ります。イスラエルにおける最初の王サウルの登場と、彼の業績、とりわけペリシテ人との対決が描かれます。しかし、その描写は今日の歴史学で言う「歴史的な」報告ではありません。イスラエルの歴史の中で成立する王制に対する神学的な価値づけを伴って描かれています。神の人サムエルは、王の背後に立つ人物として、あるいは王と並び立つ人物として、さらには、王の上に立つ人物として描かれています。サムエル記は、サムエルこそ王国の成立にとって、決定的な形で関与した人物であることを明らかにします。そのことにより、このサムエルを道具として動かしている主の手こそ、歴史を支配する真の力であるということを、この上なく明瞭に際立たせています。こうして、イスラエルにおける民の成立、カナンにおける土地取得とともに、国家の形成が、またイスラエルの滅亡と再興と等しく、特別な意味で神の摂理に基づくものとして描き出されています。

7-15章の中で、7章は、内容的にも、神学的にも、これらの主題に基づく出来事を準備する位置を占めています。この章はサムエルのことが描かれています。サムエルについてのその描写は、神が神の人を通じて働く次第が明かにされています。ここでサムエルは最後の士師として登場します。サムエルは士師時代の指導的人物が持っていたすべてのカリスマ(賜物)を具備するものとして現れます。これは、彼が果たす役割を理解する上できわめて重要です。

2節の冒頭の主の箱がキルヤト・エアリムに留まって「20年間」が経ったという記述は、サムエルの職務期間の前半が意味されているのかもしれません。もしそうであるなら彼の残りの後半生は、15-16節に描写される聖所を巡回し祭司としての務めを果たすことと裁き司としてのつとめを果たすことに費やされたことになります。しかし、サムエルのそのつとめは「主の箱」と何の関わりもなく行われているだけでなく、本章全体を通じて神の箱についての記述はここだけです。イスラエルにおいて重要な役割を果たしているのは、サムエルがイスラエルを裁いたこれまでの20年間も後半生の20年間も、神の箱ではなく、それに代わる聖所でもなく、サムエルであり彼を通じて働かれる神ご自身でありました。それは、エルサレムの聖所の焼失、捕囚による聖所での祭儀不可能という恒常的事態に直面したイスラエルが何により自らの信仰的アイデンティティを保ちうるかという課題と同じ課題に答える出来事として、サムエルの著者は意識してこのところを叙述しています。主の箱の偶像化がもたらした悲劇的出来事を、サムエルは忘れません。その箱に内包されているもの(御言葉)と、それを通して御心を示される神に立ち帰り聞く信仰こそ重要であり、サムエルの聖所巡回と裁きのつとめは、民にそのことを示すために費やされました。サムエルの主の箱に対する無関心とおもえる関わりのなさは、この本来の神と民とのあり方(信仰)を教えるためにむしろ有効であったといえます。

事実、イスラエルは異教の偶像と神の箱を同列においていたふしがあります。イスラエルには神の箱と並んで、バアル(あらしの神ハダデとしばしば同一視されるカナン人が礼拝する主神)やアシュタロト(バアルの配偶者で、愛と豊穣と戦争の女神)のような「異教の神々」が民の中で信仰され、共存していました。それゆえサムエルは3節において、イスラエルの全家に対して、悔い改めを求める説教を行っています。(二節後半のヘブル語本文は意味不明で、日本語訳は判りやすい読み替えに従っています。)

「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、…心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。」というサムエルの言葉は、ヨエル書2章13節 の「衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」の御言葉を彷彿させます。単に偶像を捨てればいいというのではなく、「心を引き裂く」ほどの主への立ち帰り、悔い改めが必要であり、「心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕える」悔い改めの信仰を伴うことが何より必要とされているのです。偶像を捨てること、捨てきることは、あくまで真の悔い改めの結果として可能となるということが、サムエルの説教の根底にあります。だから偶像を捨てたという形が重要なのでなく、捨てたことにより、本当に主に立ち帰った者として歩みだすことがより一層重要なのです。このサムエルの説教を聞き、「イスラエルの人々はバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」(4節)といわれます。

サムエルは悔い改めをその行為によって確認した後、民をミツパの聖所に集め、彼らのために祈りました。そして、「水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日断食し」罪の告白をするよう指導しました。「水をくみ上げて主の御前に注」ぎ出す行為は、旧約聖書の他の箇所で知られていませんが、この行為は罪の告白や断食と関連のある行為であると思われます。水と悔い改めの結びつきは、新約においては、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)として見ることができますが、この行為とそれとの関連はわかりません。これとは別に、 哀歌2章19節では、「主の御前に出て/水のようにあなたの心を注ぎ出せ。」という悔い改めを求める呼びかけがなされています。いずれにせよ、「水をくみ上げて主の御前に注ぎ」出す行為は、サムエルが民に命じた悔い改めを、身を持って示すべきものとして理解されたに違いありません。

ダビデはペリシテとの激しい戦いのさなかにある時、「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」と切望しました。それを聞いたダビデに仕える三人の勇士はペリシテの陣を突破し、ベツレヘムの城門の傍らにある井戸から水をくみ、ダビデのもとに持ち帰りました。ダビデはこの三勇士の行動に感激し、この水を飲むことを望まず、注いで主にささげました。「主よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません。これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」(サム下23:17)といって、ダビデはその水を飲もうとしなかったといわれています。このダビデの逸話とここでの悔い改めの水を注ぐ行為とは、意味も文脈も違いますが、このパレスチナという風土の中で貴重な水が飲まれずに注がれる行為の中に、人の命にとってなくてならぬ最も貴重なものを主に注ぎ出していきるのが本当の悔い改めにふさわしい生き方であることが示されているのではないでしょうか。

この後、「サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った」と記されて、サムエルの士師としての職務が報告されています。また、彼は祭司として聖所において礼拝を指導していました。

しかし、サムエルがミツパに民を集めていると聞いたペリシテの領主たちは、そこで軍事的な相談と指導がなされているとみなして、イスラエルに攻め上ってきました。当時、イスラエルの主権は実質的にペリシテに握られていました。ペリシテとの戦いに敗れたイスラエルは、「鍛冶屋」を持つことが赦されず、「剣や槍」を作る自由を奪われていました(サム上13:19-20)。このように武装解除されていたイスラエルが、近づいてくるこの強敵に立ち向かえる武器は、ただ祈りだけでした。イスラエルの民は自分たちをとりなしてくれる唯一の祈り手としてのサムエルに向かって、「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」と乞いました。「黙っていないで」は、字義通りには、「叫ぶのを止めないで」です。民は声を出して祈ることをサムエルに求めたのです。祈りは神への叫びです。神へ向かって叫ぶのは弱い信仰のない人間のすることではなく、立派な信仰の行為です。主に向かって叫ぶのを止めたなら、わたしたちの信仰に救いも希望もなくなります。主に向かって叫び続けるのが信仰です。祈りの生活です。彼らはサムエルの説教を聞いてこの大切なことを学んだのです。

サムエルはこの民の切実な願いを聞き、全焼の犠牲を捧げ、主に向かって叫び、祈りました。主は彼の祈りに答えられました。主から与えられた助けは、天からの「雷鳴」でありました。これら一連の出来事の中で決定的な行為を行っているのは、主です。主が敵を滅ぼし、民を守っておられます。その際人間がなすべきことは、祈ることと信仰だけです。そして、イスラエルに残されているのは、主によって撃破されて敗走するペリシテ軍を追撃することだけです。

敵の手中にあり武器を持たない主の民とこれを指導するサムエルの戦いの勝利は、主の民(教会)の信仰の戦いを象徴的に示す出来事でありました。その戦いは主の戦いであり、軍事的な力によらず、主に全幅の信頼を寄せて戦うものに主の勝利として勝利がもたらせられるという神学的な意味が示されました。この勝利の定式は、イザヤやホセアのメッセージの中にもくっきりと反映されています。イザヤはエジプトに下って助けを求める者に向かって、次のように語りました。

エジプト人は人であって、神ではない。
その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。
主が御手を伸ばされると
助けを与える者はつまずき
助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。(イザヤ書31章3節)

サムエルはこの勝利の場所に石を取って置きその場所はエベン・エゼル(助けの石)と名づけられたと12節にあります。しかし、4章1節には、あのペリシテとの戦いに陣を敷き、神の箱を運び出して敗れた場所が同じくエベン・エゼルであるといわれています。これは偶然ではありません。あれは偽りのエベン・エゼルであり、ここで語られているのが本物のエベン・エゼルなのです。神にのみより頼み、祈り、神の勝利を覚える信仰を土台とする礎が築かれる場所こそエベン・エゼル足り得るのです。

ペリシテ人の攻撃の手は完全に静められました。そして、「サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。」といわれます。ペリシテに対する勝利は、サムエルの時代という限定づきで語られ、その場所も限定して述べられています。それは、サムエルという神の人を用いイスラエルを裁いている間は、この国を襲う者がなく、平和と繁栄があったということを現しています。神の手はサムエルという道具を用い、神は神であることを示されます。それは、真実に神の言葉を取り次ぎ、その者を通して神の言葉が聞かれ、真実の心を注ぎ出す神への立ち帰りを現す悔い改めが行われていた時を指します。サムエルは救済者とした神と民を執り成し、彼を通して救いが民にもたらされたのです。その生涯は、イスラエルのために捧げられました。毎年、ベテル、ギルガル、ミツパの聖所、そして、自分の家のあるラマを巡回し仕えました。彼の働きは「主のために祭壇を築く」ことです。民に正しく神を礼拝に導くことに捧げられました。このような霊的指導のできる指導者のいる民は幸いです。その指導に心から従う民の信仰の歩みも幸いです。身を引き締めてこれらの言葉に聞き従いたく思います。

冒頭に申し上げましたが「神の箱」についてはもはや何の言及もありません。神の箱がないこと、強い軍事力もないこと、国家的主権も十分にない、王もいない、しかし、霊的指導を行う独りの人物がいたこの時代こそ、イスラエルは最も神を正しく礼拝し、神への信頼に生きる真実の信仰を示していたのです。神の箱に内包される「律法」は、その心に刻みこまれていたので、心を注ぎ出して神に仕え、神の勝利を一点の曇りもなく生きることができたのです。そういう信仰をわたしたちも学び受け継ぎたいものです。

旧約聖書講解