申命記講解

18.申命記26章1-11節『イスラエルの最古の信仰告白』

申命記26章1-11節は、初物の伝承と、それを奉納する典礼上の儀式に関する規定からなっています。ここでは典型的な申命記的説教調の文体様式が用いられ、約束の地に入ることをまだ未来のことと見なしています。しかし、その叙述全体はでこぼこしており、より古い素材に、二次的な加工を施したものであることが判ります。今ある本文に従えば、奉献は二度にわたるおごそかな宣言を持って行なわれることになっています。3節に最初の宣言があり、5節以下に第二の宣言があります。それは、文字通り神に直に語りかける様式で告白されています。しかし、奉納物引き渡しに関する食い違いが見られます。4節によれば籠は儀式の初めに祭司に引き渡されますが、10節によれば儀式の終わりになってはじめて祭司に引き渡されることになっています。このでこぼこさが、より古い伝承にここで申命記的な手が加えられていることを明らかにしています。フォン・ラートは、より古い伝承素材を5-11節に求めなければならないと述べています。

祭司に引き渡す初物については、申命記18章4節にも言及があります。この儀式全体で最も重要なのは、奉納者によって述べられる宣言で、それは、二重の組み立てを持っています。「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」(3節)という最初の宣言は、第二の宣言(5-9節)の要約に過ぎません。両方とも、神への呼びかけの言葉を欠いており、神は3人称で語られ、願い求めや神をたたえる言葉もないので、これを祈りということはできませんが、語り手は、ヤコブから始まる先祖たちの歴史に言及しています。事実、創世記24章4節以下、31章24節によれば、ヤコブは「アラム人」と見なされています。二つの宣言は、カナンの地に入るまでの救いの業についてかいつまんで述べています。この歴史のイメージは、モーセ五書の大きな資料層と即応し、申命記26章5-10節の叙述は古い伝承に基づいていますが、モーセ五書の資料層とは、著しく違ったイメージを見せています。

それは、5-9節の出来事の列挙に、シナイの出来事が欠けている所に見られます。エジプトにおける苦難を、多くの言葉を用いて叙述することから始まり、奴隷状態の解放から、いきなりカナンへの入植に言い及んでいます。シナイの出来事は、その意義において、申命記ではイスラエルの初期の他の出来事のすべてを大きく抜きんでているはずでありますが、これと類似したものや、比較の対象となりうる歴史的な出来事を要約したものが全く言及されていません。このクレド-にシナイ伝承のことが全く触れられていないということは、シナイ伝承は、ある特定の宗教伝承の複合体として、その固有の歴史を持ち、固有の生活の座(Sitz in Leben)を持っていたに違いない、とフォン・ラートはのべています。

9節で歴史的出来事の朗誦が終わり、10節からは、全く個人での立場での語りとなっています。語り手は、今や、自分の歴史的な前提において語るという状況に、自ら身を置いているからです。奉献された果実は、「主が与えられた地」からもたらされたもので、語り手は、自分を救済史の中に組み入れて、自分を約束の地の賜物という救済の出来事の受け取り手であることを告白しています。地の実りを与えられたことに対する感謝の言葉には、信仰箇条の筆頭に本来あるべき創造と祝福ではなく、ただ神による救いの歴史的業だけが思い描かれています。それは、イスラエルが経験した救いの業すべてを集約させるという、初期のヤハウエ信仰に即したものであるということができます。

申命記26章5-9節は、最古のイスラエルのクレド-(信仰告白)と呼ばれています。このクレド-は、ヨシュア記24章2-13節の歴史的回顧とともに、イスラエルの自己理解を示すものです。このクレド-は、イスラエルが主の嗣業として与えられた土地から取られた初物を捧げる祭儀の場において(1,2節)、告白すべきものとされています。
池田裕著『旧約聖書の世界』(三省堂、1982年)、158頁、「民族の原像としての『さすらいのアアラム人』」に以下のような説明がなされています。

イスラエルには古くから秋の収穫期になると、大地から刈り取ったばかりの初物を、かごに入れて神に捧げる習慣があった。この感謝祭の儀式において、人々が声を合わせて朗誦した祈りは、「わが先祖はさすらいのアラム人でした」という言葉で始まった(申命記26・5)。「さすらいのアラム人」(アラミ・オヴェド・アヴィ)、これがヘブライ人自身の告白した彼らの先祖のイメージであり、ヘブライ民族の「原像」であった。

アラム人は、もともとシリア砂漠を中心舞台として生活していた遊牧民で、ヘブライ語と同じく北西セム語圏に属する言葉を話した。古い伝承によれば、イスラエルの族長ヤコブの義父ラバンはアラム人であり、ヤコブの父イサクの妻はラバンの妹、さらにイサクの父アブラハムもアラム人と親戚関係にあった(創世記25:20,24:15,29)。

アラム人が聖書外資料にはっきりした形で登場するのは、前12世紀になってからのことであり、ヘブライ人たちの族長たちが生きた前二千年期前半に、既にアラム人が存在していたかどうかを明確にするものはないが、シリア砂漠には前三千年期末頃から、一般にアムル人と呼ばれた北西セム系の遊牧民が住み、いわゆる「肥沃な三日月形」の住民たちと-ある時は友好的な、ある時は敵対的な-交渉関係をもっていた。アムル人とアラム人は、彼らの主たる生活の場(シリア砂漠)においてもその生活形態(遊牧ないし半遊牧生活)において特別異なることはなかったし、アラム人は様々なグループからなるアムル人(アッカド語で「西方人」を意味する)の流れの一つが発展したものであろう。

いずれにせよアブラハムも、イサクも、ヤコブも、天幕を張り、羊や山羊などの小家畜のための水や草を求めて、「肥沃な三日月形」を広く彷徨する遊牧生活者であった。・・・
ヘブライ人も、前二千年期末には遊牧生活をやめて「乳と蜜の流れる地」カナン中央の山岳を占拠して定住する民に変わって行った。ヘブライ諸部族が、サウル、ダビデといったイスラエル最初の王のもとに王国を形成していたころ、カナンの北東には、ダマスコを中心としてその名もヘブライ人が「アラム」と呼ぶ強力なアラム人の国家が登場した。以後、「アラム」は、それが前732年にアッシリア帝国に滅ぼされるまで、イスラエルが直接国境を接する国の中で最も恐れる国となる。事実、アラム人は、イスラエルにとって最後まで、文字通りナンバーワンの敵だったのである。

ところがヘブライ人の族長たちが天幕に住み家畜を追う遊牧生活を説明するだけなら「わが祖先はさすらいのヘブライ人(イヴリ・オヴェド・アヴィ)」といってもよかったのに、宿敵アラム人の血統に自分たちの先祖を結びつけて、祭儀の場で朗誦した。ヘブライ人は無神経だったのだろうか。そうではない、「それは預言者自身を含むヘブライ人の自己批判であり自己浄化作業(カタルシス)でもあった。それを可能にしたのは、人間は自己を飾るより裸の状態に近付けておいた方がずっと健康的であるとするヘブライ的衛生感覚であり、厚化粧した肌より水洗いしてせいぜいオリーブ油を薄く塗った程度の肌の方がはるかに自然で美しいというヘブライ的美的感覚であった。それは内面に隠されている自己を徹底的に追及して裸にすることができるヘブライ人の自信であったとも言えよう。」

この池田裕の指摘は、このクレド-の精神を理解する上で重要です。

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