サムエル記講解

16.サムエル記上15章1-35節『アマレクとの戦いとサウルの廃位』

はたしてサウルは神の御心にかなう人物なのか?これが、ここまでのサウル物語の主題でありました。15章は、そのサウル物語の結論です。15章はサウル王について決して一面的に否定的な評価だけを下していませんが、結論として言えば「サウルは神の御心にかなう王ではなかった」と言うことになります。なぜそう言えるのか、この物語の叙述から見て判断するしかありません。

本章には、アマレクとの戦いの勝利に対して取ったサウル王の態度が王位の将来を決定することになったことが中心に描かれています。アマレクとの戦いは、サウル王が自ら望んで開始されたものでも、その時代の歴史的な必然性を持つ戦いでもありませんでした。民が王を求めたのはペリシテとの戦いに勝利し、カナン周辺地域に安定した王国を打ち立てることです。サウルはその期待にこたえるべく戦いに勝利し、イスラエルの救済者としての働きを果たしたことについては、14章47節以下のサウル王の治世についての記述が明らかにしているとおりです。ですから、時代の要請という点から言えば、アマレクを撃つことは、イスラエルの民の期待としてもなく、したがって民の声を大切にしようとするサウル王の意思としても現れて来ない、少しの必然性も感じられない問題でありました。

しかし、主なる神とその従者であるサムエルには、必然性のある問題でありました。サウル王とその民には考えもしなかったことかもしれませんが、主の意思においては必然の問題でありました。そして、サウルは、主なる神が、サムエルの意思に逆らい、民の声を聞いて王とした人物ではありましたが、サムエルがサウルに向かって1節において述べているとおり、彼は主によって油を注がれ、「主の民イスラエルの王とされた」人物でありました。民の声が勝ったように見えても、イスラエルの王として主に選ばれた人物(神の人)は、人の声に聞くのではなく、「主が語られる御言葉を聞く」者として立てられていました。これを告げるサムエルが最初に学んだことも、「主よ、お話しください。僕は聞いております」(3:9)といって、主の声を聞く生き方を第一とすることでありました。主の「油注ぎ」を受けたという事実が、自分の意思や民の意思でなく、主の意思を第一とする者とならねばならないことを示しています。

サムエルはこの信仰の認識に立って、サウルに、「今、主が語られる御言葉を聞きなさい」と言って、アマレクに対する「聖絶」を告げています。3節最後の「滅ぼし尽くせ」は、「ヘレム」というヘブル語が用いられていて、この語は、「聖絶」という特別な意味を持ちます。「聖絶」という概念は、敵の所有物すべて、人も家畜も滅ぼし尽くして、神への奉納物とすること(申命7:2,ヨシュア6:21)を意味し、いわゆる聖戦(サムエル上17:47)の法に定められていました。

申命記25章17-19節には、「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」とあり、アマレクは、出エジプトに際し,イスラエルが約束の地に入るのを、最初に、しかも最も露骨で卑劣なし方で妨げようとした敵でありました。アマレクは、「主は代々アマレクと戦われる」(出エジプト17:16)といわれる主の敵対者でありました。サムエルはこのイスラエルに伝えられた記憶に基づき、サウルに対し、カナン外の住民であったアマレク人に対する聖絶命令を発しました。その命令の内容は、「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」というものです。

それゆえ、アマレクとの戦いは主の戦いであり、主の祈りの勝利でありました(出エジプト17:11)。神が歩もうとする道を「手を挙げて」遮ろうとする者たちへの応答は、聖絶でしかあり得ません。なぜこの時アマレクに対する聖絶命令が発せられたか、その理由は申命記25章17-19節において明らかにされている通り、イスラエルが王制という形で,それまで不可能であった力の結集に成功した時、主への敵対者に対する聖絶を直ちに実行されねばならないとされていたからで、今がまさにその時であったからです。だから、王は、何よりも先ず、主からその正当的権利を回復すべく召命を受けたものとして描かれています。サウルが油注ぎを受けたのはこのためであることを、サムエル記の記者は強調しています。

サウルはこの命令に従い兵士を召集し点呼を行い(4節)、アマレクとの戦いを実行し、「ハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討つ」(7節)ことに成功しました。「しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くし」(9節)、それを自分たちの手元に置きました。サウルはこの行為をもって、神の御心にかなう人物ではないことを明らかにしました。彼は,この戦いを他の戦いの場合と同じように扱いました。しかし、このことがサウルの罪と見なされました。それは、神聖なものを冒涜する行為であったのです。

これに対する神の対抗処置が下されますが、神はサウルを王としたことを「悔いる」という神の後悔という驚くべき事実が告げられています。それはノアの大洪水の時(創世記6:6)以来の出来事として記されています。神はかつて自分が下した決定に奴隷的に拘束されることなく、その決定をも自由に処理できる主権者にして全能者です。神は人間の行動をも顧慮してその決断を行われます。神はその全能によって人間の責任を免除されず、選任した王を廃位されます。神の全能は、ご自分が用いる道具が役立たない者であったり、適当でないことが判明した時、いつでもそのものを捨て去ることができます。

サムエルはこの神の決意を知りました。王制への移行を潔しとしなかったサムエルは、しかし、ここではその最初の王サウルが廃位されそうだと知り、「深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ(祈った)」と言われています。神の後悔とサムエルの夜を徹しての祈りを必要とするイスラエルの危機がここにありました。成立したばかりのイスラエルの王制の危機です。

しかし、廃位されようとしている王サウルは、まったくそのことに気づかず、「自分のために戦勝碑を建て」(12節)ています。そして、自分の所に訪ねて来たサムエルに向かって、「わたしは主の御命令を果たしました」とさえ言っています。サウルはこの戦勝行為を自分の功績の一つと考えていること、そして、聖絶命令に反していながら,主に命令を忠実に実行したとの言葉は,彼の良心の咎めを表すものではありません。彼はこの時本当に自分の罪、誤りに気づいていなかったようです。

その罪に気づかないサウルに対して、サムエルは、「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」(14節)と問い、サウルは、「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と答え、主の命令を忠実に行っただけでなく、主への供え物のことまで考える敬虔さをもって、この事柄にあたって来たと答えているのであります。サウルの答えは、通常の戦いでの勝利においては敬虔な行為として主張し得るかもしれません。しかし、彼は「聖絶」命令を通常の戦いのレベルで捉え、その命令の言葉を、神の声ではなく、自分の宗教的敬虔のレベル、民の声のレベルで捉えたことによって根本的な間違いを犯しました。

この誤りに気づかないサウルに対して、サムエルは、主の油注ぎによって王とされた者は、イスラエルの下にあるのでなく、上にある者として王とされている事実を指摘します(17節)。そのさらに上には神の意思が存します。さらに上にある神の意思、神の命令をことごとく行って、彼は主の御心にかなう王たり得るのです。聖絶はすべてを滅ぼし尽くすことにより主への献身、全てを捧げる信仰を求めるものです。通常の犠牲では、人間の取り分も認められますが、聖絶においてはそのようなものは一切認められません。サウルは戦利品を聖絶にせず、運び出した、これが「主の目に悪とされた」(19節)行為となったのです。

サウルはこのサムエルの言葉を聞いてもなお、「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」(20-21節)と答え、自分を正当化しようとしています。その責任を「民」のせいにさえしようとしています。アダムやエバが罪を犯した時のように、自分の責任を他に転化し、自分自身は主に忠実に生きようとしたことを主張し続けています。

サウルには聖絶と普通の犠牲の区別が理解できていません。言いかえれば、形式的な犠牲による敬虔さをもって、こと足れりとする彼の宗教観からは、この問題の本質は見えてきません。サムエルは彼に対して、

「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。
主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」

と告げています。

聖絶命令において求められるのは、完全な御言葉に対する服従です。犠牲の奉献というのは、元々は主の命令に基づくものであったとしても、時には人間の都合で人間によって演出される事柄に代わっていくことがあります。しかし、聖絶においては、人間が神の行為主体の道具となるのであり、従って服従において生きることが求められていす。だからどのような意味であれ、それに代わるもので神を満足させ得るのだとの考えは退けられます。

結局、この神の聖絶命令に反するどのような敬虔そうな行為も、神への反逆行為であり、偶像崇拝であり、主の御言葉を退ける行為となります。サウルは積極的な主への反逆者であったわけでありませんが、主の道具として、主の御言葉に聞くという信仰に立たない敬虔に生きようとしまた。そこに彼の根本的な誤りがありました。しかし、このたぐいの敬虔さを誇るわたしたちの信仰生活、教会生活が多く見られます。本当に御言葉に胸を打ちたたいて悔い改め、服従して聞き従う者となっているか、一人一人に自己吟味が求められています。

サウルはここまで聞かされてやっと自らの罪に気づき、その罪の告白をし、罪の赦しを求め、サムエルに必死に縋ろうとします(24-25節)。しかし、サムエルは、「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」(26節)といって、身を翻して立ち去ろうとしたところ、サウルはサムエルの衣の房をつかみ必死に食い下がりました。しかし、その衣の房が引き裂け、それが彼の王位が退けられるという象徴となることが告げられます。

10節で主の後悔が語られていますが、29節では、その逆のことが語られています(新共同訳は意訳しすぎて判りにくい訳となっています)。これは民数記23章19節の「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか」、と同じ意味で述べられた言葉です。即ち、神の悔いは、人間的な不誠実やその他の欠陥とは何らかかわりのないものであり、サウルをどう扱うかかという点に関しても神はあくまで自分自身に対して誠実なのであり、いかなる意味でも移り気ではないということです。

サムエルはサウルが執拗に罪を悔い、民の長老の手前、どうかわたしを立て、一緒に帰ってください、という願いを聞き入れましたが、これによって、主の裁きの言葉が取り消されることはありませんでした。

そして、サムエルはサウルが実施しなかった聖絶を行うべく、「主の御前にアガグを切り殺し」(33節)ました。アガグが主の前で切り刻まれたことによって、聖絶のおきてが回復され、神の御言葉の絶対性が回復されることになりました。

サムエルは神の言葉に反し廃位されたサウル王と死ぬ日まで会おうとせず、サウルのことを嘆き、主はサウルを王にしたことを悔いられたとの記述でこの章は閉じられています。神の言葉を取り次ぐ者の嘆き、神の悔いは、選びの民に対する不変の愛を表しています。この神の悔いにおいてこそ、イスラエルの救いの希望を見出すことができます。新しい王による永遠の王国建設への道がここから用意されて行くのです。

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