アモス書講解

10.アモス書5章4-6節『主を求めよ、そして生きよ』

5章には、イスラエルの滅亡を告げる「挽歌」と並んで、「そして生きよ」との言葉が語られています。9割の滅亡の中にも、1割の「生き残る」者のあることが「挽歌」において歌われていました。その望みの中でこのメッセージは福音として語られています。しかし、「そして生きよ」の「そして」は、「わたしを求めて」という言葉に続いていることに注目しなければなりません。単に、「生き残る」者の一人となることが求められているのでありません。「わたしを求めよ」「主を求めよ」ということがイスラエルの生の根本になければならないということがいわれています。その生の基本が先ずあって、「そして生きよ」という言葉が続くのです。生きることは、「主を求める」ことであることが言われているのです。

しかし、イスラエルの現実はどうであったか、先ず宗教面が顧みられます。

4章4-5節では、「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」といわれていました。それは、聖所とされるところで彼らが実際行っていた犠牲祭儀は、心からの主への献身とはならず、「お前たちの好んでいることだ」といわれる、人間的な利害関心に合った敬虔の証明としての礼拝行為でしかなかったのです。そのような礼拝においては、神は自分たちの願望に合った形でしか求められず、神は人間の願望に答える僕でしかありません。それを「罪」として、預言者は鋭く批判しています。

ここ5章4-6節の預言においても、前述の聖所における祭儀に対する批判に基づいて、恐らくベテルで語られたものでありましょう。

しかし、ここに示される視野は、4章4-5節の地平をはるかに超えるものです。「主を求めよ、そして生きよ」という要求は、人間に一つの新たな視野を広げる言葉です。この言葉は5節の審きの言葉と並んで、積極的な要求の重みを与え、決定的な意味を与えるものです。

このアモスの言葉は、同時代人には、審きの他の言葉と合せて、人々を震え上がらせる、破壊作用を及ぼしたに違いありません。なぜなら、祭りの際に、聖所で規則的に「ヤーウェの眼前にまみえること」が、聖なる義務であり、古来の風習であると考えられていたのに、その聖所において神を求め得ないとするなら、人々はいずこにおいてヤーウェを求めるべきであろうか、という問題が生じるからです。

ベテル、ギルガル、ベエル・シェバ、これらはいずれも王国の中にある古来からの聖所と認められていた場所です。そこに行って、「助けを求めるな」といわれ、「行くな」と言われ、行くことさえ禁じられています。

これが、「わたしを求めよ、そして生きよ」という言葉に続いて語られている禁止だけに、人々に困惑と恐怖を抱かせる言葉にならないはずがありません。イスラエルの人々にとって、これらの場所は、畏敬の念をもって身を震わせながら、神の恵みを喜びと感謝を持って享受しつつ、神との交わりを体験するところであったからです。また、これらの場所は、聖なる伝承に包まれ、聖所としての意義を広く認められていたことを考える時、アモスの口を通して語られる神の言葉が及ぼした作用の大きさを測ることが出来ます。アモスの言葉は、一方で神を求めて生きることを要求しながら、他方、これこそ神を求めることのできる唯一の方法であると人々が信じていた方法を否定しているからです。

だから、このアモスの警告は、聴衆にとって理解を超えたなぞめいた言葉として聞こえたに違いありません。しかし、アモスの言葉と聴衆の理解との間にあるこのギャップこそ、神に到る方法と神との交わりに関しての理解をめぐる、預言者と民の間の対立の大きさを明らかにするもののほかありません。

民の実践する祭儀宗教と預言者の要求との間に横たわる相違は、生の根源にまで溯る、絶対的なものでありました。巡礼や供儀や祈りを伴う祭儀は、結局何らかの仕方で人間的利害に依存しています。人々は神の恵みを手に入れようとし、来るべき年のために神の祝福を確保しようと努めます。実際、農耕社会の宗教では、様々な宗教儀式は、何よりもまず来るべき収穫における豊作を確実なものとするために執り行われるのを常としています。かくして、「救い」の確保という言葉を持って、人間が自己を主張し、あるいはその生存を確保することが、こうした祭儀の究極的な動機となり、目標となります。このような祭儀においては、神も、神との交わりも、最終的には人間の目的に従属せしめられています。だからその祭儀が、如何に敬虔そうな態度で守られていたとしても、高慢な人間の利己的な目的のために要請する、神利用の機会に過ぎず、神はどこまでも人間の僕としての従属的な位置にとどまり続けます。

しかし、預言者は言います。神は神ご自身のために求められることを望まれる、と。神は、神以外である人間の生の目的に仕える方ではありません。あるいは、そのための媒介者でもありません。神は、人間にとって目的そのものです。これこそ、アモスが神を求めて生きよという要求をしていることの意味です。

生きるとは、神を求めることにほかならなりません。それはまた、神との交わりにあることにほかならないのです。すべては、この根源的な命題から自ずと生じてきます。生きることにおいて重要なのは、人間の意志や願望ではありません。神の意志であり、神の思惟です。したがって、人間の意志と思惟の中心に置くべきは、神の意志であり神の思惟です。祭儀においてもまた、その根拠であり目標となるべきは、人間の願望ではありません。神の意志がこの地上において完全に具現することです。その理解に立つ時、神との交わりは、人間の生の意味そのものであり、人間が人間であることの唯一の生きる表現形式となります。

だから、人は神を求めて生きることなしに、本当の生を生きることは出来ない、ということになります。「神を求めて生きよ」という言葉は、信仰の本質を表現しています。宗教というものを、神信仰というものを、人間の側からのみ見ようとする姿勢のあり方からは、この言葉の持つ本質を見極めることは出来ません。この言葉は、そのような姿勢で神を求める生き方をする人間に対しての、宗教批判を含んでいます。預言者アモスの言葉は、同時代の人間と、神との交わりに関して、根本的に異なる見解・理解を表明しています。祭儀の否定は、同時に神との交わりが、祭司らの仲介と典礼挙行の慣習的な束縛の下を生きざるを得なかった人間に、その束縛から解放させる意義を持っていました。

この様に語り得るのは、アモス自身が、神によって自分が捉えられており、その生のすべてが神のものとなっているという信仰を与えられていたからです。自分の生の現実において働いているのは、神であり、神に捉えられた生の喜びを知る預言者の言葉であることを、われわれは忘れてはならないのです。

アモスは単に祭儀を否定しているのではありません。神に己の生を委ねない、神の意志と思惟の中を生きようとしない、祭儀を否定しているのです。礼拝自体の偶像化を批判しているのです。そうした偶像化された礼拝から、民を取り戻し、真の礼拝の回復をこそ、祈り願っているのです。アモスの言葉には、審判が先行しているわけではありません。むしろ、「わたしを求めよ、そして生きよ」という言葉が先行しているのです。

神の恩寵のもとに身を委ねて、そこに浸りきって生きる平安への招きが、ホセアに劣らずアモスにもあります。

そして、6節は、生は神と共にあり、神なしには死あるのみである、ことを告げています。神は、民の死を望んでおられるのではありません。神の意志は、民が神との交わりに生きることです。しかしながら、この真実な交わりが現実化しない限り、神の審きは厳然と存在し続け、民はそれから免れることが出来ません。6節の預言者の言葉は、生か死か、神につくか背くのか、あれかこれかの決断の前に、民を立たせます。もし民がこの言葉を軽視し続けるなら、そこに待っているのは、「火のような」審きしかありません。

しかし、繰り返し言いますが、神の意志は、裁くことにあるのではありません。民が主を求めて生きることにあります。だからこのアモスの言葉と、主イエスの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:29)という言葉は、別のことを言っているのではありません。イエスのこの言葉は、ファリサイ派の律法主義のくびきに苦しんでいる聴衆に向かって語られた言葉であることを忘れてはなりません。人の本当の平安は、主を求めて生きるところから与えられます。その招きの言葉として、このアモスのこの言葉を受けとめることが何よりも求められています。

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