イザヤ書講解

64.イザヤ書58章3-12節『神に喜ばれる断食』

ゼカリヤ書7章3節以下には、断食の問題が捕囚後の共同体をひどく悩ませていたことを明らかにする言葉が記されていますが、イザヤ書58章3節以下に記されていることも、ゼカリヤと同じ問題を扱っています。特定の日を断食日に定めて、断食を守る習慣は、586年の破局後に起こったといわれます。その中心は嘆きの行事ですが、包囲開始の日、都占領の日、都と神殿消失の日、ゲダリヤ殺害の日などが断食日とされました。しかし、ゼカリヤも第三イザヤも、その弊害を問題にしています。

3節後半から4節にかけての預言者の告訴は、誤った礼拝の告訴と社会的告訴とが一つになったアモスの言葉(2章8節)と内容的に合致しています。ここでは断食日の行事自体が非難されているのではありません。4節の最後に記されている「お前たちの声が天で聞かれることはない」という言葉は、断食は本来、そのことを目的とするものであることを物語っています。問題は、彼らの行う断食がそうなっていなかったところにあります。

それゆえ預言者は、断食日にはびこっているその深刻な濫用を告訴しています。「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまく」(5節)苦行は、悔い改めと神への嘆願を表わす行為ですが、その嘆願自体がここで批判されていません。その行為を外面的に行うことによってことたれりとする、その姿勢が問題にされています。マタイによる福音書6章16節以下で主イエスが述べている通り、外面的な敬虔を表わす断食行為そのものは、何ら本質的な意味を持ちません。断食の特質は自己制限と自己放棄にあります。その特質は自己を捨て、人を助ける行為にも見られるものでもあります。それはなにものにも拘束されずに生きる神にある解放と自由の喜びに生きる人間の本質的な姿を表わすものでもあります。申命記15章の奴隷の掟の中で、イスラエルにエジプトで奴隷であったことを思い起こすように促していますが、それと同様に、第三イザヤはここで、人を助ける行為において、自ら被った拘束とそれに続く解放と関連させて述べています。

捕囚からの解放は、虐げられた生活からの自由はもたらせましたが、飢えや、渇きや、貧しさから、すべての人を解放したわけではありませんでした。その状態からある程度の富を得て、それなりの豊かさを享受する人もいましたが、大部分の人は相変わらず貧困なままでしたし、いまなお束縛のくびきから解放されずにいる人も多くいました。その悲惨の中で苦しむ人に背を向けて、定められた断食日を形式的に守り、国の滅亡や捕囚の悲惨な体験を嘆きながら、自分から借りた者が返さないからといって負債者に暴力的な仕打ちで取立てをする。そして、それが争いといさかいをさらに生む現実を作り出していました。預言者は、こうした現実に目を向けて、そういう現実を放置して形式的に守られる断食というのは、神が本当に喜ばれる断食だろうかと問い、そうではないと答えています。

6,7節の言葉は、61章1-3節の解放の福音の告知をほうふつさせるものがあります。拘束されている者、虐げられている者、飢え乾く者、貧しい人、裸の人、そのような状態にある同胞への、自由のための救助は、いまや形式的禁欲的な慣例となっている断食よりも神に喜ばれるものとして、神の名によってより重要なものとして言明されています。

現代のように他者の生活がそれぞれの個人の生活と切り離されている現状では、この言葉は、私たちの生きている現実には適用しにくい面があります。それぞれの生活が完全に個人として独立し、無干渉を建前としているからです。しかし、私たち個人が企業人の一人として、グローバルな世界に展開する事業に関わるとき、自覚化されないまま、貧しき者とされる人々の権利を侵害しているという事態が起こっているかもしれません。そうした弱者の苦しみへの共感を忘れた社会を神が喜ばれることはない、と語るこの預言者の言葉は、現代の私たちに対して挑戦的であり、その生き方に対して警鐘を発する言葉であります。その問いに対する答は簡単には出せませんが、自己反省の契機とすることが求められているように思われます。

8節から11節は、苦しむ弱者に心を配り、助ける行為が、神の喜ばれる断食として語られた前節までの言葉を受けて、そのように生きる人に向けられた神の祝福の言葉です。ここで呼びかけられているのは共同体としてのイスラエル、教会ではなく、一信徒、一個人としての「あなた」です。私たちの人生が輝き、希望に満ち、祝福されたものとなるのは、主の正義を「あなたの正義」として、呼びかえられる一人一人が生き抜くことによってです。イザヤ書52章12節で、

あなたたちの先を進むのは主であり
しんがりを守るのもイスラエルの神だから。

といわれていたことが、58章8節では、

あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。

という言葉に変わっています。この変化を人格的な神との結びつきで語る第二イザヤから後退した「色あせた」個人的レベルでの転義であるという評価もありますが、主の民として生きる個人の責任、役割の大切さを、巨大な社会や企業の一人としてしか現実には生きられない者にとって、むしろ大きな慰め、希望となる約束であるとともに、挑戦となる言葉です。

その意味で9節の次の言葉は、非常に大きな現代的意味を持つメッセージを含んでいるということができるでしょう。

あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。

私たちが主の名を呼び求めるその場所に、「わたしはここにいる」といってご臨在を明らかにされる、ということがこの言葉によって表わされています。どこにいても臨在の主と出会え、祈ることができる、そこに救いがあります。そしてここに、主の主権と救いの導きを受けることができるとの約束が語られています。

主の民がそれぞれ一個人としたなすべきことは、「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくこと」を取り去ることであり、「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たす」ために尽くしていくことであるといわれています。そうすれば、「あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(10節)と約束されています。

国家というものがない時代、あるいは国家の機能が小さくなり、一企業が私人として利益を独占するような状況では、個人倫理の果たす役割は重要な意味を持つようになります。第三イザヤは、復興の混乱の時代にあって個人としての主の民の信仰の目覚めを大いに期待し、そのための促しをこれらの言葉を持って語ったのではないでしょうか。そして、その個人として主の民として最も心がければならない民の貧しい者、虐げられている者に気を配り、助けの手を差し伸べるものに与えられる主の祝福を、11節において、次のような素晴らしい言葉で語っています。

主は常にあなたを導き
焼けつく地であなたの渇きをいやし
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

飢え乾く者が、尽きない泉に導かれて、渇きを癒されるというのではありません。その人自身が常に主の導きを受け、人に力と希望を与え、潤された園、水の涸れない泉となって、人に潤いを与える存在となるという素晴らしい祝福、約束がここに語れているのであります。

このように第三イザヤは、8-11節においてすべて主の民に対して与えられる変化としてではなく、個人としての存在に関連付けて主の祝福を語っていますが、唯一例外が12節の言葉です。この節においてだけ民に関連した約束が語られています。廃墟となった祖国の再建と個人の役割は、決して分離されるものでも、別に存在するものでもありません。しかしそこに個人としてしっかりと主の民としての自覚した取り組みがなされていくところから、国の再建、信仰の共同体の再建への道が切り開かれていくことを語る第三イザヤの語り方が、現代を生きる私たちには新鮮で、また挑戦的なメッセージとしての性格を持っているように思えます。

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