エゼキエル書講解

24.エゼキエル書21章11-22節『剣の歌』

この箇所は、6-10節と同じ「剣」による恐るべき殺戮について語られています。神はいつものように、預言者エゼキエルに、「人の子よ」と呼びかけています。エゼキエルに告げられた言葉は極めて辛辣(しんらつ)で、「呻け。人々の前で腰をよろめかし、苦しみ呻け。」というものです。エゼキエルに神が求めたのは、その民と苦難を共に担うことです。「どうして呻いているのか」と民が尋ねるほど激しいうめき声をエゼキエルはあげたのです。エゼキエルは、呻くことが神の意思であり、それは、民がこれから味合わねばならない苦悩の呻きを明らかにするために呻かねばならなかったのです。そして、これからおとずれる災いは、すべての勇気をなえさせ、あまりの恐怖で、肩を落とし、手は力なく垂れる程の厳しいものです。

12節後半の「すべての膝は水のように力を失う」という翻訳は、これでは何の言っているのかわかりません。ヘブライ語の原文は、「すべての膝はぬらす」という意味の語が用いられています。これは、あまりの恐怖のため、膝までぬらしてしまうほどの失禁をしてしまうことを示す隠喩(いんゆ)表現です。

この恐るべき事態に対する預言者の嘆きは、悔い改めない民に対する神の恐るべき審きを不可避なものとして示すものです。この嘆きは、神の審きに人間の抵抗を無条件に粉砕するシンボルとして、その出来事を先取りするものです。そして、主の御言葉に聞かないかたくなな心を打ちたたき、驚愕(きょうがく)させ、今まで目を閉じていた神の逃れることのできない御手の前に、結局屈することになることを明らかにしています。

かつてエレミヤは、身を切られるような苦痛のうめき声をあげました。

わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。
わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。(エレミヤ4:19)

人々がそれをむなしい饒舌として笑い飛ばせると考えている時にも、既に生じている告知の出来事を保証する呻きです。それは、7章の終わりの日の到来を告げる重々しい鐘の音のように鳴り響いています。そして、それは、12章21節以下に記された審きが間近に迫っていることへの警告でありましたが、その裁きの言葉が、慌てふためく聴衆の目の前で、預言者が耐え忍んでいる苦難の中に現実のものとなったのです。それが、「すべての人は勇気を失い、手は力なく垂れ、すべての霊は力を失い、すべての膝はぬらす」(12節)時に、自分の姿がどうなるかはっきり悟るに違いない。聖なる神の裁きを避けようとして来たが、その時、神が逃れようもなく彼らに現れ、来らんとする破滅に目を開いて見るよう、人々に強いるのです。

エゼキエルは、これまで、この来らんとする審きをさとし示す神の幻を、譬えにおいて示してきました。15章1-7節の役に立たぬぶどうの木の譬えと17章の2羽の鷲とぶどうの木の譬えが、がそれです。
しかし、13節以下において、それが一風変わった「剣」によってもたらされる恐るべき殺戮として告げられています。

かつてイスラエルの王ヨアシュは、預言者エリシャから命じられて、三度矢を地に射ました。それを、三度アラム人から勝利を得る記しとして示されたことがあります。しかし、その場合、ヨアシュは、矢を五度、六度と射るべきであった、そうすればアラムを撃って、滅ぼしすくす事が出来たであろう、とのエリシャの言葉を聞かねばなりませんでした。
しかし、ここでは、殺意にたける剣を二度、三度とふるって、その恐ろしい破壊力をふるって、残されたエルサレムの住民とその王家を襲う審きとして告げられています。

泣き叫べ、人の子よ。
剣がわが民に臨む。
彼らはわが民と共に
剣の前に投げ出される。
それゆえお前は腿を打って悲しめ。(17節)

とエゼキエルは、それを、主なる神の言葉として聞いています。エゼキエルは、剣を取って殺すものとして、刃を鋭くして、「右に向かい、左に向かい、お前に向かうところどこへでも」(21節)向かわねばならないことが告げられています。預言者は、神が定めた破滅を完全に実行するために、あらゆる方向に向かい、容赦なくなぎ倒していくよう要求されているのです。実際エゼキエルは聴衆の前でその行為をしたはずです。主なるヤハウエ自身が自ら言葉を発し、悪を懲らしめる者となって、その激しい怒りを鎮めようとして、預言者の動作を保証し、その効果を確保されるのです。ここでは聖なる裁き手だけが独り働き、剣の持ち主として現れたもうのです。要塞都市を次々に破壊して自分の刑罰を行う者となったバビロンの征服者の剣の行為(23-25節)を、ヤハウエの行為として告げているのです。

この現実の歴史において起ころうとすることを、神の意思の具現として語るこれらの言葉は、エルサレムの滅亡を告げるものとして示されています。しかし、それは当時、地上最大の強国バビロンが究極の剣として働いたのではないことを示す意味を持ちます。

これらの言葉は、主の言葉を誰よりも多く与えられた者が、それを何よりも大切にして生きることをしなかったものへの厳しい審きとして告げられているのです。しかし、この逃れようない現実に、神は一条の光を与えていて下さっていることも忘れてはなりません。それが主ご自身の言葉として告げられている限り、この言葉に聞き、神に立ち帰る者に、そのかなたにある、終わりの日における救いを約束する言葉が隠されているからです。このわたしたちの時代の中で、この言葉を、破れの中で生きる人々に、問いとしてなされている言葉として聞くことが大切です。

旧約聖書講解