ヨシュア記講解

12.ヨシュア記11章16節-12章24節『全地』

ここで、ヨシュアの土地取得についての総括を見ることができます。事柄の中心にあるのは「全地」(イスラエルがダビデ・ソロモン支配時代にできた最大領域であると考えられる)であって、土地取得は既成事実として描写されています。そして、ヨシュアは「全イスラエルと共に」すべての任務を遂行しているが、それは、主が予めそれを遂行されているがゆえに可能なものとして描写されています。

章16節において、総括される最初の土地取得は、10章40―41節と、11章2節の記事を自由に用いてなされています。「イスラエルの山地」は、後の北王国の領域を示し、それはサマリアとガリラヤを意味し、事実上「全地」が意味されています。

旧約聖書は領土の表現を、しばしば二つの境界地点を示して説明しています。最もよく知られているのは、「ダンからベエル・シェバまで」という表現で、これは南北の有名な聖所の名に従う表現法です。」ここではダンよりもさらに遠くまで広がっています。「レバノンの谷」は、レバノンとアンティレバノンの間に位置し、広大で肥沃な平野です。ヘルモン山は北方の境界地点で、冬の晴れた日には、その雪が南のエルサレムまではっきりと見えると言われています。

18-20節は、戦いが土地の住民の抵抗によって強いられたものであるが、その抵抗は主ご自身が「彼らの心をかたくなにした」ことに理由づけられています。そのため聖絶することが義務とされています。ヨシュア記の記者にとって重要なことは、土地取得をどこまでも「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。主は、モーセに命じたとおりに、彼らを滅ぼし去られた」(11:20)と言われる、神ご自身による遂行として評価することでありました。ですから18―20節は神学的記述であって、史実に基づくものではありません。旧約聖書は、歴史的に見てこの土地への入植では勝利者が入れ替わり、カナン人がかなり生き残って、たいていは時間が経つにつれてイスラエルと結合した、ということを知っています。その様な記述は、カナンの土着の神バアルとヤハウエとの間の戦いと対立が残り続けなければなされなかったことをも示すものであり、それは神学的歴史理解の問題として重要な意味を持っています。

21,22節には、アナク人のことが注記のかたちで語られています。ヘブロンの地域で土地を不安定にした巨人族として、アナクは記憶され続けてきました。それゆえ、彼らを根絶することは、主がヨシュアに遂行させた任務の大きさを示す証拠となります。背丈が「六アンマ半」(3メートル以上)ある「ガトのゴリアト」(サムエル上17:4)のような人物が想像されます(サムエル下21:19-22も参照)。アナク人の一掃は、15章13ー14節では、ヨシュアではなくカレブに帰されています。ヨシュアもカレブも、アナク人について記録する民数記13章では、カナンの地を偵察する「斥候たち」の指導的人物でありました。カレブは斥候のリストによればユダ族の代表であり、この領域の先住民を一掃するのに関係した人物と考えられます。

11章の最後23節は、ヨシュア記後半への移行を先取りし描写しています。戦いに明け暮れる土地取得は既に終わり、今や平穏のうちに土地分配が行われ、その土地はイスラエルに「嗣業」の土地として与えられる。それは歴史的な叙述よりも、その意味を神学的な解釈をすることに力点が置かれています。

12章1-5節に、東と西のヨルダン地域で征服された王たちのリストが明らかにされています。この記事は民数記21章21―35節、申命記2章3章に記された内容にほぼ当てはまります。ここでも先住民の巨人族の記憶がその子孫に残っていたことが分かります。オグがレファイムの生き残りとして記されているからです。このオグの巨大な寝台のことを土地伝承は長く保存していました(申3:11)。

12章6節は、東ヨルダンの土地取得の出来事はヨシュアの業ではなく、「主の僕」モーセの業であることを強調しています。

12章7―24節は、ヨシュア記の記者の関心が西ヨルダンの土地にあることを示しています。列挙されている町々の地理的位置は、南部地域(14節)、ユダの丘陵地(15-16節前半)、サマリアとガリラヤ及びカルメル地域(16節後半―24節)です。

ヨシュア記1-12章に、何を、どのように記述されているかを知ることは、ヨシュア記の編集者たちにとって、何が重要でないかを知る手がかりになります。聖書を護教的に読み、ヨシュア記1-12章を史実的に「正しい」とするなら、それは聖書記者の意図を誤解することになります。ヨシュア記の物語においては特定の神学的な事柄がはっきりしているのであって、それが編集者たちにとって重要でありました。わたしたちがここで思い浮かべるべきはヨハネ福音書記者のやり方です。ヨハネ福音書の記者は与えられた素材「によって、を用いて、の下で」決定された真理を神学的に具体化しようとしています。つまり根本的に際立つ真理は、事実(ファクトではなくリアリティー)として真に歴史を支配するのであって、それはヨシュア記の場合でも同様なのである(ヘルツベルク)。決定的なことは、いかなる場面でも民が現われて、主に仕え、神の名において土地を要求し、獲得するという点です。その様にして土地取得は約束の成就として具現し、従って神の遠大な計画の中に組み込まれるのです。その土地こそは神意にかない、整えられた舞台として具現し、その上でさらに神の歴史が成就することになるのです。

旧約聖書講解