ホセア書講解

2.ホセア書1章2-9節『ホセアの妻と子』

ホセアの召命について、詳しいことは何も知ることができない。2節が明らかにしていることは、「主がホセアに語られたことの初め」についてであり、その言葉を通して、ホセアが神の使者として人々の前に現れたということだけである。しかもその登場はまことに衝撃的なものであった。

主が最初に語られた言葉は、「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ」というものである。ドキッとする言葉である。この言葉は昔から多くの注解者を悩ませてきた。主なる神がこんな非倫理的な命令を下すはずがないというのである。そのため、「淫行の女」の意味を和らげるいろんな試みがなされてきた。しかし、ホセア書全体を読み進むと、この命令は本当になされ、ホセアが本当にこの命令にしたがったと理解しないと、ホセアの苦悩を通して表される神の苦悩と愛を知ることができなくなる。

ホセアは「淫行の女をめとれ」との主の命令を聞き、そのように従った。「淫行の女」とは、文字どおり淫行を犯した女性のことである。イスラエルは荒野の旅を終えカナンに定着したが、カナンの地にはバアル宗教があり、五穀豊穣はバアルの恵みと理解され、その神殿祭儀には性的な儀礼が行われ、神殿娼婦がその儀礼において重要な役割を果たしていたといわれる。イスラエルはカナンの豊かな農耕文化に触れ、荒野時代における神と民とのあり方を忘れ、カナンの豊かさにあこがれ、ついにバアル宗教にあこがれ、その宗教儀礼を取り入れ、堕落への道を歩んでいった。王も祭司も民も、皆、この罪を犯し、主の民のあり方が完全に見失われた時代にホセアは生きていた。イスラエルが栄華と繁栄を極めたヤロブアム王の時代であった。その繁栄の時代に、ヤーウェ宗教はバアル化していった。

しかし、それは、主の目には夫である主に対する背信行為であり、姦淫の罪以外のなにものでもなかった。

イスラエルの存在自体が「淫行の女」となり果てた時代に、ホセアは預言者として召命を受け、その民に向かって神の言葉を取り次ぐ使命を担って主から遣わされたのであった。

彼がその存在を通し語らねばならなかったメッセージは、夫から離れた妻は、いろいろな苦しみにあい、改心して再び夫を慕うようになる。それまで夫は変わらぬ強い愛をもって妻を連れ戻すというものであった。夫とはヤーウェであり、妻とはイスラエルのことである。

「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」との命令は、「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」という過去と現在におけるイスラエルの罪の現実を抜きにして理解できない。ホセアに「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」との命令を与える主は、背信の子イスラエルを愛してやまないがゆえに苦悩しておられる。ホセアは、その結婚生活を通して味わう自らの苦悩を通して、主の苦悩の大きさ、イスラエルの罪の大きさを改めて知らされ、イスラエルの罪を明らかにし、イスラエルの悔い改めの呼びかけを行う預言者として立つことを求められる。

ホセアは、主の命令に従い、淫行によって既に身重になっている「ディブライムの娘ゴメル」をめとる。しかし、ここには預言者ホセアの苦悩は一切書き記されず、淡々と主に従う預言者ホセアの姿が書き記され、主の言葉が書き記されているだけである。ホセアの結婚生活だけがその始めから苦悩と辱めに満ちたものであったわけでない。彼が主から受けた言葉は、その民の歴史についてまことに悲観すべき運命に関するものであった。

ホセアの三人の子に与えられた名は、イスラエルの将来に関し象徴的な意味を持つものであった。この三人の子の名は、母の不貞によるイスラエルの特権の喪失を意味していた。

第一子の名イズレエルは、王家が滅びることを意味していた。

イズレエルは悪しき残虐な王アハブと王女イゼベルが避暑地とした町であった。エスドラエロン平野の東端に位置し、ここでイエフ(エヒウ)は、神の命令によってアハブの属するオムリ王朝の者を虐殺した(列王下9-10章)。アハブ王がバアル礼拝や数々の罪を犯したからである。しかし、イエフは偶像をことごとく破壊することになっていたが、それを実行しなかったため(列王下10章29節)、イエフ王朝も紀元前743年に、その子孫ゼカリアがシャルムにおいて殺され(列王下15章10節)、オムリ王朝と同じ運命をたどる。背信のイスラエルは、バアル宗教の導入と、政略結婚による複雑な婚姻関係により国が混乱し、クーデターが相次ぎ内部から崩壊していった。イズレエルとは「エルが種を蒔く」という意味である。エルとは、神(バアル)を現す。ヤーウェの民イスラエルという土壌に蒔かれたバアル宗教とその文化の影響はまことに根強く、誰も摘み取ることができなかったが、主が最後にはそれを摘み取る、というのがこの預言のメッセージの中心にある。それは、「イスラエルの弓を折る」(5節)という方法において実現する。弓はイスラエルの軍事力を意味する。イスラエルの軍事力を弱め、バアル宗教に根まで腐らされたイスラエルの国、王家を滅ぼすことによってその罪を断ち切るというものであった。

第二子の名は、ヤーウェから捨てられることを意味している。

しかし、「ロ・ルハマ(憐れまぬ者)」の運命については、詳しく記されていない。ホセアは、主の民イスラエルの存在を、ヤーウェの恵みと慈しみに基礎付けようとしているので、民が神の深い愛を忘れ、無思慮に自分を誇っているのに対して、神の憐れみももう終わった、と断言しているのであろう。

第3子の名ロ・アンミは、イスラエルが選民としての特権を失うことを意味している。

主はイスラエルを「わたしの民」と呼び、ご自身をイスラエルに対して「あなたの神」として啓示し、荒野において「わたしはあなたの神となる、あなたはわたしの民となる」という契約を結ばれた。イスラエルは以後、主から「わが民(アンミ)」としてずっと認められてきたのに、ここで「ロ・アンミ(わが民でない者)」と呼ばれ、「あなたたちはわたしの民ではなく わたしはあなたたちの神ではないからだ」と呼ばれている。

ここに「神」と訳されている言葉は、「エフエ」(あるものである)が用いられている。これは出エジプト記3章14節の「わたしはある(エフエ)」と同じ言葉が用いられている。神と民との完全な分離、神がイスラエルとの絆となることを自ら断ち切られたというのである。

神との交わりを忘れ、バアル宗教へと走る背信の罪はそれほど大きい、と主は言われる。神の忍耐深い愛、恵みと慈しみに満ちた激しい愛には、その愛を忘れ、主からそれる民に対する容赦のない厳しさと共に、神の定めた契約関係は、審きによる廃止があることを、忘れてはならない。

旧約聖書の教えの基本には、救いは、神が「わが神(エフエ)」としていつも共におられ、愛し続け、導きを与えて下さることによってのみ保たれるという信仰がある。しかし、神が「わたしはあなたたちの神(エフエ)でない」と宣言されるとき、そこには救いの根拠が根こそぎ奪われる、希望なき悲惨が明らかにされている。この宣告によって、イスラエルは、「ロ・アンミ(わが民でない者)」の運命が決定づけられることになる。そう語らざるを得ないほど赦しがたいイスラエルの罪を、ホセアの第三子に名づけさせることによって、預言者に、向かわねばならない厳しい現実を知らしめられる。しかし、深い愛を持って子を愛する親は、同じような言葉で子を突き放すことがあっても、本当に突き放してしまうことはない。立ち帰ることを求めての深い愛がその言葉の中にも残る。その点を見逃さないで聞く心と耳を持つことが、聞く者に求められる。

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