士師記講解

8.士師記7章1-25節 『ギデオンの精鋭』

士師記7章は、ミディアン人との『ギデオンの戦い』を記しています。これまで、臆病になりやすいギデオンを励ますために、主は幾つもの徴を与え、何時もギデオンと共におられることを明らかにされました。主にそのように励まされて、ギデオンはミディアン人と戦う準備をしました。ギデオンはギルボア山の麓エン・ハロドの泉の辺に陣を取りました。ミディアン人はモレの丘に沿って北の方、谷の向こう側に陣取っています。ギデオンが集めた兵の数は3万2千人でした。ギデオンはミディアン人と戦うのに必要な数をやっと集めることができたと安心していました。

しかし、この時、主からギデオンに示されたことは、「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」(2節)だから、「恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ」(3節)と呼びかけるように、というものでありました。

神はイスラエルを選び祝福されようとされたのは、彼らを徹底して恵みの下に生きるものにするためです。神の恵みを得る信仰の戦いにおいて必要なのは、一貫して主の恵みにより頼んで生きる者になりきることです。しかし、現実の敵と戦うためには、多くの兵多くの武器が必要だと考えやすいものです。確かに戦いにはそうした準備は必要です。しかし、その準備によって、神の恵みが入り込む余地がないほどに人間の力で戦いを戦い抜こうとするのは危険です。その戦いに勝利したとき、人は己の力を誇り神への感謝を忘れやすいからです。

キリスト者の戦いは何時も主の戦いです。主御自身がその戦いの中心にいまし、主が戦ってくださいます。それ故、勝利は何時も主のものです。栄光は主のものです。何時も数が少なくて良い、少ない方がよいというのでもありません。主が数を求めているのに、不信仰の故に数を出せないのもいけません。キリスト者の戦いには神の勝利の意味を失わすことになってはならないのです。神がこの場合、ギデオンの部隊の数の多さを問題にされたのは、そこに神でなく人間の数の力で困難を切り開こうとした罪を見逃すことができなかったからです。不信仰が原因で逆のことが起こったとき、神はきっと兵は少なすぎると答えられると思います。

世の戦いにおいて必要なことは徹底して神の恵みに答えていく信仰であり、委ねる信仰です。神はギデオンにこの恵みの中に徹底して生きるものとなるために、兵の数は多すぎると言われたのです。

ギデオンは、「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)、という主の御声を聞き、恐れを抱く2万2千人の兵士が帰り、残ったのは1万人でありましたが、主はそれでも多すぎると言われました。主はギデオンに命じてこの戦いに参加するに相応しい兵を選ぶ、水のテストをされました。主の命令は、膝をかがめずに用心深く手で水をすくって飲んだ三百人だけで、わたしはあなたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡すと言うものでした。

主の戦いに数の多い少ないは根本的に問題でありません。だからといって、誰でもいいと言うのでもありません。主のために何時も供えをしている用心深い人でなければならない、これが主のお考えでした。終末を待つ教会に求められる信仰も同じです。いつ終末の日が来ても大丈夫なように注意深く供えをしている人だけが、主と共に栄光の凱旋をすることができます。

主がこの三百人を選ばれたときに、敵はギデオンの手に渡っていました。キリスト者の戦いは既に成された勝利を戴く凱旋者の行進のようなものです。主イエスは十字架において全ての悪の力を打ち破られました。徹底して父の御心を主イエスが行われて十字架上で死なれたとき、主は勝利者となられました。その勝利は復活によって明らかにされました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と、主イエスは宣言しておられます。

キリスト者は既に成された勝利者キリストの勝利に与かる戦いに参加させられているのです。勝利を信じているが故に怠惰になるのではなく、信じているが故に注意深いのです。主を見失わないように、主の命令と言葉にしたがって、信仰の火を灯して、主が共にいますことを確信しつつ歩み続けるのです。

ギデオンは、主の命令に従い続けました。主はご自分が共にいまし、ギデオンに勝利をもたらすお方であることを確信させるために、夢を見させその解釈をギデオンの友達にさせました。ギデオンは、「その夢の話と解釈を聞いてひれ伏した」(15節)といわれています。「ひれ伏す」という行為は、礼拝の姿勢を示しています。つまり、ギデオンは、ここでので主を賛美する礼拝を捧げたのです。礼拝において頂いた力によっていっそう戦いの勝利は確実になりました。

ギデオンの三百人に与えた指示は、一種の奇襲作戦です。これに何かの霊的な意味をこじつける必要はないと思います。ただ見逃してならないのは、ギデオンが、「主のために、ギデオンのために」(18節)と叫ぶのだと命じていることです。どうして、この二つのことが等置されているのかということです。主のためと、ギデオンのためとが等しくあることが可能とされる、そういう事がどうして言えるのか、これは間違えれば大変なことになります。

ギデオンは、三百人を三つの部隊に分けて、自分と全く同じ行動をすることを命じました。こう言えとギデオンが命じました言葉とともに、この事はまた、わたしたちにとって大きな挑戦です。果たして、こういう事を大胆に言える教会の指導者が今日いるでしょうか。

ギデオンの信仰において、主が自分と共におられると言うことは明白でした。それ故に、主のためとギデオンのためは、同じ意味を持つことができました。ギデオン自身が徹底して主のための戦いをしている、そう信じていましたので、この事を矛盾なく大胆に言えたのです。パウロが「わたしに倣う者になりなさい」(Ⅰコリント4:16)と言うことができたのも、自分が人より優れていると自覚したからではなく、寧ろ、徹底して主の前に遜って主に仕え、恵みに生かされている自分を発見したからです。徹底した自己放棄と主への委ねの中に生きる信仰は、このような大胆な生き方を生みます。三百人が角笛を吹き鳴らしているあいだ、主は敵陣を混乱させ、敵を同士打ちさせて打ち破られました。

ギデオンの信仰の勝利は混乱していたイスラエルの中に信仰の一致をもたらしました。数の少なさ力のなさが、教会を弱くする原因にはならないし、反対に数が多いから教会は強いとも言えません。教会の本当の強さは、勝利者イエス・キリストを仰ぎ見つつ指し示しつつ一致して主の戦いを戦おうとする信仰が現れ出ていることにあります。戦いの前に、静かな勝利の礼拝があったように、イエス・キリストを心から讃美し、イエス・キリストにある一致を確かめる礼拝が守られているなら、教会は勝利の教会となっています。教会の本当の強さはこの信仰をもっていることです。ギデオンとその精鋭にはその信仰の一致がありました。わたしたちの教会の歩みもそうありたいものです。

旧約聖書講解