アモス書講解

15.アモス6:1-3,13-14『空虚な喜びへのいましめ』

この預言は、サマリアの上流貴族階級に向けて語られたものです。語られた場所もサマリアです。ヤロブアム2世の時代(前787-747年)、イスラエルはハマテの入り口からアラバの海(死海)までを回復し、平和と経済的繁栄に酔いしれていました。貴族階級はその平和と繁栄がいつまでも続くものと考え、サマリアの山で安逸をむさぼっていました。アモスはその様な貴族階級に向かって、繁栄に目をくらまされることなく、もっと冷静に歴史の進行に目をとめ、主の正義と公平に立った歩みをしないなら、破滅の日は遠くないと審きを告げていました。

しかし、彼らは、ヤロブアム2世治下のイスラエルの戦果を引き合いに出して、その繁栄はいつまでも続くと反論しました。彼らにその安心感を与えたのは、ベト・シュメシュの戦いにおけるユダに対する決定的勝利です。その地でユダの王アマツヤは打ち破られ、捕らえられました。難攻不落と思われたエルサレムは、勝利者となった北イスラエル王国のヨアシュ王に門を開き、ヨアシュはエルサレムの城壁の一部を破壊し、神殿の宝物と祭具および人質を取ってサマリアに凱旋しました(列王下14:8以下)。この勝利は、イスラエルの都サマリアが天然の要害に恵まれ、その技術力が勝っているからもたらされたものであると人々は考えていました。それゆえ彼ら上流貴族たちは、サマリアの山を誇り、その軍事力に慢心していました。彼らは自らを「諸国民の頭」といって、己惚れていました。

アモスは、自己の力を信じ、自分の業績により頼む彼らの自己満足的な高慢がもたらす脆さを見抜き、その誇りに満ちた大国意識が破滅される運命について語ります。アモスは「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び、『我々は自分の力で、カルナイムを手に入れたではないか』と言う。」(13節)といって、高慢に振る舞っている彼らに辛らつな皮肉を込めて語っています。ロ・ダバル(空虚)とカルナイム(角)という二つの地名は、彼らによって制圧された町々ですが、アモスはこのような言葉遊びによって、自らの預言に敵対し、得意満面になっている彼らに、嘲笑(ちょうしょう)を込めて叱責しています。

アモスは、彼らの高慢の根拠にしていることを、2節において徹底的に疑っています。彼らは軍事的勝利と平和と繁栄に酔いしれていましたが、アモスは、人々の熱狂に心を奪われることなく、一人冷静な現実感覚を保っていました。アモスは、アッシリアによる圧迫に苦しんでいた都市国家オロンテスのハマトとアレッポ地方のカルネについて言及しています。アモスの冷静な判断と歴史洞察の深さは、彼の神信仰の一部をなしています。彼はヤーウェが歴史を支配しておられることを信じています。それゆえ、歴史を洞察することは信仰の問題です。その信仰の目による歴史の洞察からは、イスラエルに特別の希望を約束するものは存在しません。むしろ、アモスは、彼らが不遜な自負心によって、自らの目を狂わせ、歴史を見る尺度を狂わしている現実を指摘し、その現実を冷静に見るよう促しています。

アモスは3節において更にこの現実を見るように促しています。彼らは幻想を抱いて、災いがはるかに遠い日に起こると思っていました。しかし、その様な幻想と錯覚こそが、正に破滅と崩壊とを己が身に招く第一歩でありました。一民族が軍事力を高め、その権力を拡大し、高慢になることは、他の民族を刺激し、嫉妬と敵意を高めることになります。そうして自己の破壊を早める芽を、自らの内に宿すことになっていることを、為政者は自覚しなければなりません。

しかし、彼らが災いの日を自ら遠ざけ、顧みようとしないことは、実は密かな不安を抱いていることを証明することになります。人間の自己安心の裏には、常に不安の影が付きまとっています。その自負心こそが、自らの不安を神に向かって正直に認めようとしない元凶であり、真の勇気を欠いた行動をとらせることになります。結局人間は、神から逃げ出すことは出来ません。神の意志に背を向け、自己安心に生きる者は、その裏面にある「不安」そのものによって仕える人生を歩まねばならないことになります。そうした貴族階級によるイスラエルの国家支配とその繁栄とは、不安に仕える道をたどらざるを得ません。

それゆえアモスは14節において、その全歴史を通してあらわされる法則の中に、神の経綸を見ます。イスラエルもその例外ではない諸民族の盛衰の中に、神の審きを見るのであります。今やイスラエルを圧迫する特定の民が、神の命令によって出現します。アモスはその民のことを詳しく告げていませんが、アッシリアを念頭において語っていることは間違いありません。

「レボ・ハマト」と「アラバの谷」とは、当時のイスラエルの支配地域の北と南の地境を示しています。14節は元来、「災いだ」という言葉ではじまっていたと思われます。つまり、それは歴史の偶然ではなく、神の審きとして起こることを告げる、審判預言として語られていることを示しています。このイスラエルへの圧迫は、神の審判として起こります。それは、神の力と人間的な力へのおごりとの対照として起こります。自己により頼むイスラエルは、神の力によって、その傲慢な希望が潰え去らせられます。神の威厳によって、この自称大国は、ロ・ダバル(空虚、無きもの)にされるのであります。

アモスが歴史を見通して発言しているのは、決して歴史の状況に引きずられて政治的論議をしているのではありません。事柄に対する彼の態度を決定するのは、歴史の法則ではありません。神に対する彼の信仰です。歴史に表される神の啓示であり、神の意志の具現であります。アモスの目は、すべての歴史に先立ち、その上に立って諸国民を支配する主に向けられています。それゆえ、自らの成果によって自分の力を信頼し、自己過信でそれに酔っている民の指導者よりも、事態の究極の姿を深く見て取ることが出来ました。アモスは、醒めた目で事実の正確な姿を見ています。民の指導者たる上流貴族階級は、自分たちの勝利が神の賜物であること、また自分たちの力もまた神の賜物であることを知り、それを謙虚に神から受けたものであるとして、神に栄光を帰すことを学ぶことがありませんでした。しかし、それを学ぶことこそが、信仰の唯一の正しい姿勢であったはずです。

この高慢な民の指導者に向かって告げる預言者の最後の言葉は、「お前たちを圧迫すると万軍の主なる神はいわれる」という言葉でありました。しかし、この預言者の言葉は、審きが目的ではありません。悔い改めを求めた審きの告知でありました。預言者アモスは、わたしたちにも同じ言葉を持って今も語っています。彼らのように地上の繁栄に酔いしれてはなりません。神の民としてその繁栄の空虚さを知り、決して繁栄は「自分の力」で得た物ではない、という自覚をいつも持つべきです。繁栄は、神の恵みの賜物としてあることを、感謝し謙虚に受けとめるべきです。その栄光を神に帰すことを忘れてはならないことを、預言者は警告しています。心して聞かねばならない言葉です。

旧約聖書講解