エレミヤ書講解

40.エレミヤ書23章23-32節 『夢と神のことば』

旧約聖書において「夢」は重要な啓示手段として広く認められています。しかし、エレミヤの時代、「わたしは夢を見た」といっては、偽りの預言をする者が現れ、民を惑わしていました。偽預言者たちは、「夢解き」によって、神は近くで働き、まるで神を近くで認識できるという間違った認識を民に与えていました。確かに、神は近くにいます神でありますが、神は人間が自由に認識し、自由に操れるお方ではありません。神は私たちの近くにいて助け導かれるのですが、神は人間が近づくことのできない卓越したお方です。ただ神が私たちに圧倒する力で近づき、ご自身を啓示するかぎりにおいて、私たちは神を近いお方として認識することが許されているに過ぎません。しかし、夢解きを行う偽預言者たちは、この点において全く誤った見通しを持っていました。それゆえ、彼らはその「夢解き」によって、民に神の御名を覚えさせるよりも、むしろますます御名を忘れさせるだけでありました。それは、夢という手段で神を身近に近づけて自由に操り捉えようとする行為であるかぎり、イスラエルの父祖たちが「バアルのゆえにわたしの名を忘れて」、犯した偶像礼拝と本質的に同じ罪でありました。

エレミヤは、偽預言者たちの神は近きにおられるという間違った認識に対して、神は「ただ近くにいる神」だけであるのではなく、「遠き神」でもあることを強調します。つまり、ヤハウェは「近くから」眼前のことしか見えない神ではなく、「遠くから」すべてを見渡す神であられる、という事実を強調します。偽預言者たちが、彼らの夢を神のことばとして神の名をもって伝えるとき、それはいったい誰を神としているのかが問題です。偽預言者たちが犯している一番大きな誤りは、神と人間の関係、神と人間のあいだにある距離を、自分には「夢解き」ができるといって、勝手に縮めていた点にあります。しかし、23節の御言葉は、神と人間との距離を強調します。それは、決して抹消されてはならない距離であり、神と預言者との関係においてさえ保持されねばならないものです。真の預言者は、実に自分の外にある異なる次元の神の現実が、預言者として立っている個人的な生の現実の場に介入して力を表す、そういう距離の存在を知っています。エレミヤはこれを自らの体験に基づいて語ります。もし人間が神との間にあるこの距離を無視したり、預言者が自分自身の思想のことばを神のことばと同一視して、神は自分に「近い」と思い込むならば、それはまさに真理を誤認していることになり、神だけが持っておられる絶対的な卓越性を蔑視することになります。

エレミヤは神と人間との間にある距離をこのように保つことによってのみ、神と人間との間にある本質の根本的な相違を自覚できると考えています。エレミヤはこの視点を神から教えられ、この視点に立って、神のことばの本質が「人間的な」夢と異なることを明らかにします。

そして、エレミヤのような真の預言者に見られるこの神の超越という包括的な思惟は、神の全知という前提に立っています。すなわち、神は人間と異なり、知覚の限界に制約されることがありません。それ故、人間の目には隠されて見えないどんなことも神にはすべて明らかです。エレミヤは、人間をこの神の前に立つという現実にまず眼を向かわせます。

この全知の神の前には、偽預言者のことばは隠されることがありません。人の眼は欺けても、彼らが自分たちの夢を神のことばとして自慢することによって、神を蔑ろにし、その御名を汚している彼らの根本的に不誠実な態度を、神は見透かしておられます。

偽預言者は、自分たちが神に捉えられていると信じ込み、神が自分たちを通して語られるといいふらすことによって、神と人間との境界を自ら消し去ります。それは、神の御名を崇める態度から出たものではありません。彼ら偽預言者の心の根本にあるのは、御名を利用して御名をもって呼ばれる方の心を読み取る力を自分にあるということによって、宗教的達人としての名声を得ようとする巧妙心だけです。

エレミヤは夢を見たと語る預言者はそれを解きあかすがよいといいます。そうして、夢とまことの神のことばとは明確に区別されるときが来ると語ります。

「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」(29節)、とエレミヤは語ることによって、神のことばの本質に触れていきます。エレミヤが神のことばを「岩を砕く槌のようなものだ」と語るとき、彼自身の味わった重い体験がありました。神のことばは、預言者エレミヤの外から臨み、エレミヤがどんなに反抗してもエレミヤ自身を打ち砕く積極的で、強く、生き生きとした一つの威力でした。エレミヤは、神のことばの啓示を受けるということが個人的な遜り、不安、そして絶望を伴うものであるということを、預言者として召命を受けた苦渋に満ちた時代から余りにもよく知っていた預言者でした。それは、1章6節、10章19節、23章9節のエレミヤの言葉において表わされています。

エレミヤは、夢を語る預言者たちのように、自らが預言者であるということに対して、その賜物を誇ることをしません。むしろエレミヤは、外から臨み、自分を圧倒し、自分自身の思想や感情に介入するというまさにその点に、逆説的に自己疎外に陥らせる、真の神のことばの現実性と真正性を認識したのであります。

しかし同時に、29節のこの比喩は、神のことばが、それを告げられた者たちに対して、及ぼす影響力の大きさについても示唆しています。神のことばは、あらゆる人間的な願望や背きに抗して、神が自らを貫き通されることによって、歴史の現実を突き動かす力そのものです。しかし、そうであるがゆえに、神のことばは絶えず人間の反抗に遭うのであります。そしてそれは、真正の預言者であるエレミヤの務めを遂行しようとするときにともなう必然の困難でもありました。

この視点に立つと、預言者の職務とは、人々のあいだで栄誉を得ることが重要であるという認識はまったく意味をなしません。むしろ、そのようなものに価値を置く偽預言者たちは、審判者なる神の前に立たされていることを認識しなければならないことをエレミヤは語ります。個人的な目的のために神を誤用する偽預言者に、神御自身が彼らの敵として立ち向かう、と主は言われます。彼らは神から遣わされもせず、委託も受けていない偽預言者です。彼らの偽りのことばは益にもならず、価値もない、と言われます。神の声を聞き取る真の預言者は、神から召命を受けた者であり、真理の御言葉から語る者であります。それを人がどうして判定できるかと言えば、聞く者自身が預言者と同じく、神のことばそのものに聞こうとする姿勢を持つ以外にありません。それは、エレミヤが自ら語らねばならない御言葉に苦闘し打ち砕かれて聞いたように、私たちもまた耳が痛くても、ただ神の御声のみを聞こうとするときにのみ知ることのできる事柄です。偽預言者は、自分の願望で神のことばを聞こうとする民の中から、そのような心の中から生まれるという事実を忘れてはなりません。

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