申命記講解

16.申命記16章1-27節『三大祝祭日の歴史とその意味』

本章は、イスラエルの祝祭を扱っています。祝祭に関する規定は、古い伝承を維持しようとする面と、歴史や環境の変化や、地域に根づく様々な慣習の多様性に対して統一化の必要性から、そして、より神学的に綱領化された原理によって統一して行くという考えから、祝祭の規則は現在のものを考慮しつつ新しいものを結びつけつつ刷新されて行った歴史があります。申命記の祝祭規定はこうした事情を考慮して理解する必要があります。

断言的に構成された法文は、言語的には、十戒にある安息日の戒めと同じくヘブライ語で構成されており、歴史的にも実質的にも、明白に、十戒に近い位置にあります。1節のアビブは、麦穂の月を意味するカナン語の月名です。これはこの規定の古さを物語っています。王国時代後期になると、月の数え方は、「春暦」に従って数えるしきたりになっています。

1節にあるヘブライ語ホーデシュは、「月」ではなく「新月」と訳すべきところです。歴史的な根拠を説明するところは、5章15節にある安息日の歴史的な根拠づけに倣ったもので、古い戒めに解釈を施した付加で、過越し祭と、出エジプトとの歴史的な関係づけは、イスラエルの最も古い時代に遡る。過越し祭はかつて遊牧民のより古い儀礼で、小家畜の群れを保護するためのものであったが、イスラエルによって、初めて二次的に、救済史的な出来事に結び付けられたのかもしれない、とフォン・ラートは指摘しています。

2節では古い三つの伝統的な年毎の祭り、種入れぬパンの祭(除酵祭)、小麦の収穫祭であった週の祭、そしてぶどうの収穫の祭であった仮庵の祭、年の変わり目に祝われた祭(出エ23:16参照)のいずれもが、巡礼の祭であった。過越しの祭だけは、かつて聖所ではなく、家族あるいは氏族の成員で祝われていた(出エ12:21・ヤハウエ資料,12:1以下・祭司文書)。ここに申命記の祭りに関する新しい考えが差し込まれて、過越しを巡礼の祭に変え、聖所でしか祝うことができないものにしています。申命記は、イスラエルの神礼拝を統一し、とりわけ多種多様な地域の祭儀的行事を、ごく少数の全イスラエル規模の祝祭に限定し首尾一貫したものにしようとしています。この規定は申命記のサークルが持っていた改革への決意に即して実施しようと決断したものであったが、彼らは、この徹底主義をもって、すべてをやり遂げようとしなかった。

過越しが家庭から聖所へ場所を変えられたならば、祭りの全体が変更されねばならず、聖所の宗教的祭事に相応しく、生け贄を献げる儀礼に適合されねばならなかった。その変化は、「献げる」という専門用語の使用に見られ、過越しは「屠る」祭儀に変わった。屠る動物についても、出エジプト記では1歳の小羊あるいは子やぎであったが(出エ12:5)、牛でもよいとされています。

そして、申命記は、過越しを夜の祝祭のままにとどめていますが、それまでのように肉は焼かれることはなく(出エ12:8)、煮なければならないことになっています(7節)。聖所では、祭儀に集まった集会構成員によって食べられる肉が、大きな鍋で煮られた(サム上2:12以下)。

別にもう一つ、春の祭があり、それはパン種を入れないパンの祭(除酵祭)でありました(8節)。過越しと違って、この祭りは、以前から巡礼の祭でありました。契約の書には、巡礼の祭として列挙されている祭りの最初に言及されています(出エ23:14―15)。これは農民の祭の一つで、既に、カナンでは、イスラエルが来る以前から穀物の収穫時に祝われていたが、そこで土地を所有するようになったイスラエルも、この祭りに参与するようになり、イスラエルの側では、それを、出エジプトの救済の出来事に結びつけた(出エ23:15,12:15以下、13:13以下参照)。

種入れぬパンの祭については、申命記では、後代に付加された状態で言及され、この七日間の種入れぬパンの祭が、過越しと直接結びつけられています。過越しを祝った構成員は翌朝に、家に帰らねばならない形になっています。こうして、後代に行われた過越しと種入れぬパンの祭の結合と並ぶ形で、古い規定が調和しないまま存在することになりました。元々申命記が、春の祭として過越しだけを知っていたとするなら、元来別の起源を有する種入れぬパンの祭がこれに結び付けられて、一つの祭となったことを物語り、後代の祝祭立法に反映されていると言えるでしょう(レビ23:5-6、出エ12:1以下、15以下)。申命記の新機軸によって過越し祭を巡礼祭に転換させることに成功しましたが、犠牲を伴う儀礼への組み込みは、長い時間をかけても浸透することはありませんでした。過越しは、家庭での、家族による祝祭にとどまりました。イエスの時代になっても、エルサレムに集まってくる巡礼者たちは、過越しの羊を神殿地域で屠ってはいますが、会食は家で行っています。

9-17節に記される週の祭と仮庵の祭(七週祭)に関する規定は、遥かに簡潔です。週の祭は穀物の収穫を終えたことを示し、仮庵祭は葡萄の収穫の終わりを示します。いずれの祭もレビ記23章43節に、「これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである」と言及されるような、救済史的な理由づけは何も与えられていません。レビ記では「仮庵」に住むことが、神の特別な配慮のもとで、荒れ野で放浪した40年を思い起こすことになっています。契約の書の祝祭の暦では、週の祭は、「刈り入れの祭」(出エ23:16)という名称です。仮庵祭は、秋、ぶどうとオリーブの収穫の後で祝われました。三つの巡礼の祭の中で、一番民衆に好まれ普及したのがこの仮庵祭です。イスラエルの祭儀の歴史のすべての時代にわたって傑出した意義を帯びていましたが、申命記の規則は、この祭りを「巡礼の祭」と呼んでいますが(列王上8:2,65、12:32、ネヘ8:14)、それ以外のことについては、何も触れていません。新約聖書では、この祭りについては、ヨハネ7:2で言及されています。

そして、使徒言行録2章においては、その七週間とは、過越しの祭に鎌を入れる時から、五十日後の穀物の収穫が終わる時までを指し、この日は、ギリシャ語で「ペンテコステ」(五十日目の日)と呼ばれ、聖霊降臨を祝う日に当たります。ユダヤ教の伝統では、七週の祭は、シナイ山で十戒を受けた記念となっています。

16節の要約は、申命記の関心が、ただ過越しの祭だけにあったことを示しています。

旧約聖書講解