哀歌講解

3.哀歌3章1-39節『絶望から希望へ』

この第3歌も第1、第2歌と同じくヘブル語のアルファベットのいろは歌となっています。ヘブル語のアルファベットは22文字からなっています。だから、第1、第2歌はいずれも22節で終っています。しかしこの第3歌は66節まであります。それは、3連を一つの単位としているので、3節で一塊を形成し、それぞれの最初に22の頭文字が用いられています。

第3歌は、「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」という一般的な文章で始まります。絶望に至るまでの苦しみ、苦悩をヤーウェのもとで体験した、ある人物の訓話に近いものであるといえます。この詩人は大破局の絶望的苦悩の体験を、1-18節において語っています。その苦悩の姿はヨブに匹敵します。この詩人は、神を「彼は……彼は(やつは、あいつは…)」と無限の敵意を込めて語ります。ヤーウェの名は、「生きる力は絶えた」という18節に至ってはじめて挙げられています。

そして、この望みの絶えた人間が、21-24節で「主を待ち望む」人間へと変貌しています。この変貌の鍵を握る言葉が20節にあります。詩人は如何にして絶望から希望へと変貌を遂げることができたのか、その謎を知ることは、全ての信仰者にとって重要な課題となります。なぜなら、彼はすべてのものの先駆けとしてその苦悩を体験し絶望し、絶望の中から立ち上がる希望を見出しているからです。

早速、この詩人がどの様に苦悩を体験し、絶望から希望への転換をはかることができたかを、見ていきたいと思います。

1節において、「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」という言葉で、詩人は自らの苦悩の体験を語りだします。「怒りの杖」といわれていますが、鞭や杖の使い道はいろいろであるが、ここで「怒りの杖」といわれているように、人間或いは神が罰を与える時の道具の意味を持っています。詩人が自分の味わった苦しみを、「主の怒りの杖に打たれた」と受け止めていることを見逃さないことが重要です。自分を襲うあらゆる苦しみが、人間の意志や行為の結果としてではなく、神の怒りの杖としてあるなら、そこには苦悩を神に委ね祈る道筋が用意されている、ということになるからです。彼は587年の大破局の体験を、「主の怒りの杖」と信仰的に受け止めています。

だからといって、彼はその苦悩の中で主への敬虔な態度を取り続けたのではなかったのです。詩人は、神を「彼は・・・彼は(やつは、あいつは・・・)」と無限の敵意を込めて語っています。

「彼に(あいつに)闇の中に追い立てられ、光りなく歩く。そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける」と、やるせない苦悩を主にぶつけています。「闇の中」は、投獄・監禁のイメージで語られ、6節まで続く中心テーマとなっています。神を主語にしたこの表現は他に見られませんが、ヨブ記19章21節では、神の手は災い、特に病気などとの関連で用いられています。

4-6節は、逃げ道のない苦痛の中で、死に至る重い病気で苦しんでいる人とのように、重い鎖に縛り付けられ、それが身に食い込み、骨まで砕くほど激しくその痛みは襲う姿が描かれています。詩人はあまりの苦しさで、のた打ち回っています。疲労と欠乏で、死を覚悟し、闇の奥に住まわせる絶望の淵にまで追いやられます。

7-16節は、2-6節同様、監禁というテーマで展開されていますが、この箇所では、主が積極的に攻撃を仕掛けてきます。助けを求めて叫び声を上げても、聞き届けられず、祈りは退けられたままです。神の追跡を受けてのその苦悩は、ヨブの苦悩に匹敵します。また、14節で歌われる民からの嘲りは、「わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。」(エレミヤ書20:7b)、というエレミヤの苦悩の姿にも似ています。

とうとう絶望した詩人は魂の平安も失うにいたります。彼はついに「わたしの生きる力は絶えた」と絶望の叫びを上げるに至ります。しかし、その絶望の叫びの後で、「ただ主を待ち望もう」と、はじめて主の名を挙げて、主にある希望に生きようと転換を図ろうとします。その転換は、自らの苦しい体験を省み、ヤーウェに見捨てられた絶望的な姿を見つめることによって与えられました。

20節の「わたしの魂」は、写本家の訂正によるものであるといわれています。元来のヘブル語本文は、「あなたの魂」です。彼が「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを、決して忘れず覚えているのは」「わたしの魂」ではなく、「あなた(神)の魂」です。神ご自身が「わがうちにうなだれる」のです。わたしの上に覆い被さってくださるというのです。つまり、今まで、神に敵意を持ち、これに背を向けて、ヤーウェに望みを抱くことをやめて、倒れ伏している人間の体を覆って、その上に「かがんで伏し」てくださっている神に思い至り、この神のフミリタス(謙卑)を経験して、この詩人は絶望から希望へ生きる人間へと変わりました。

そして、「主の慈しみはたえず、主の憐れみは尽きない」と告白するものと変わりました。復活の主との出会いの喜びを経験した弟子たちのように、朝毎に新たにされる命を、主にあって満喫し喜ぶ人間へと転換しました。だからといって、彼の取り巻く状況に昨日と今日と大きな転換があったのでしょうか。そうではありません。外的状況は決して変わりはなかったのです。しかし、詩人はもはや主ご自身を相続の地としているので、常に自分の魂が「主を待ち望む」ことにおいて平安にされていることを強く覚えて生きる新しい人間とされることを、喜んで生きる者となったのです。

そして、詩人は25節で、「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる」と語ります。主がわたしの苦渋と欠乏の中、貧しくさすらっているときに、わたしを忘れず覚えていてくださった、しかも倒れ伏して、かがみ込んで、くじける心を励まし立ち上がらせてくださった、だからわたしは主に望みを置いて絶ちあがることができた。その主の真実の哀れみに触れて立ち上がり、朝ごとに与えられる主の恵みによって新たな力を与えられる、そういう体験をこの詩人は与えられたものとして、25節において「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる」と、若者に向かって告げているのです。

今は、青春真っ盛りで、苦悩など知らないという若者も、やがて負いきれないと思うような重荷を背負って、毎日生きるのが苦しくて、苦しくて仕方がないと思うときがくるかもしれません。いや必ず来ます。

しかし、そのような苦悩の日々を過ごさねばならないときに、人はどうすればよいか、詩人は「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と語ります。詩人は主を心から待ち望む者は永遠に見捨てられない、だから人間の方は自分に負わされた苦悩をつぶやかず、希望を失わず主の救いを黙して待て、というのであります。

27節の「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」の「軛を負う」は、「主によって軛を負わされる」と訳すこともできます。28節との関係で言えば、そう訳す方がよいように思えます。この哀歌の詩人は、バビロンという捕囚の地、異国の支配化で異邦諸民族の直中で成長しつつある世代に向かって、ユダヤ人としての同一性(アイデンティティー)をどこに求めるべきか、希望をどこに置くべきかという課題に直面している者に向かって、これを語っているのであります。

これを語る彼自身そうであるように、その状況を突破する力は若者にもありません。しかし、その苦難を、主の苦しみ、主にあって味わう苦しみとして信仰の問題として捉えるとき、主の民には希望があることを詩人は伝えることができました。今日懲らしめを与える神は、明日哀れみをかけることのできる同じ神です。アモスは、アモス書の5章15節において、「万軍の主なる神がヨセフの残りの者を憐れんでくださることもあろう」と告げています。また、イザヤ37章4節には、「残りの者に」主の哀れみを期待しての祈りを勧める言葉が記されています。主は苦難を課すことと取り去ることを自由に支配することにおいて、まさに神であり続けるお方であるという信仰がここに表明されています。

31-33節に、苦難の中にある主を信じる者への憐れみを信じる揺るぎ無い信仰の言葉が綴られています。

そして、34-36節において、捕囚の地で苦しむ主の民に向かって、人間の運命を最終的に支配しているのは神の慈しみであることを語り、この詩人はその事を信じ耐え忍ぶよう励まします。そこには無数の人間が抑圧され、法廷において事実が捻じ曲げられ、正義が顧みられないかもしれないけれども、そうした不正をいつまでも主が見過ごしにされることはない。主の正義を信じ、主が全地の大王として支配されている事実を受け止めるよう詩人は訴えるのです。

37節は、その事を決定的に明らかにする言葉が語られています。この地における決定権は神なるヤーウェが持っており、従って異国の地にあっても、ヤーウェの命令なしにはいかなる人間の指令も実現しないことを告げています。

だから、人はそこで幸いばかりを期待せず、災いをも神からの命令によるものと受けとめる信仰を持つべき事を語ります。39節はヘブル語本文がはっきりしないため、さまざまに訳されているところです。38節との関係でここは、すべてのことが神から生じているのだから、人間は自らの責任についてとやかく論じるべきでなく、最終的に表される神の慈しみの御手を信じて、その日その時に与えられている人間の義務、本分を尽くすべきであるという信仰を持てとの勧めが語られています。

災いも、幸いもいずれも主からくるという信仰があってはじめて、わたしたちは、苦難に立ち向かうことができます。しかも主はそれらの苦難を通して、私たちを救い主の栄光を仰ぎ見るものとしてくださるのです。苦難を主から負わされたくびきとして積極的に受けとめる信仰をもって、黙して、独り静かに座す者に詩人は自分もあずかったように、あなたの上に主が倒れ伏し、屈み込み、守ってくださるのだという恵みを語ろうとしているのです。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれない」(31節)と語るのです。

主は、そのような待ち望みの中を生きる者を背負い、罪から贖い出してくれるお方です。

旧約聖書講解