エレミヤ書講解

42.エレミヤ書25章1~14節 『主の僕としての北からの敵バビロン』

1-14節は、ユダとエルサレムに向けられた預言です。

ヨヤキム王の第4年は、エジプトとバビロニアとの間で争われた古代オリエントの覇権の決っした前605/4年のことです。それは、前605年に死んだ父ナボポラッサルの後を継いで、前604年に王となった新バビロニアの皇太子ネブカドレツァルが、カルケミシュにおいて、エジプトのファラオの軍隊を撃退し、シリア・パレスチナの支配権を手中にした年でありました。これによって世界史の新時代が始まりました。ユダを脅かす勢力は南から北に移りました。エレミヤの宣教にとってこの出来事が特別重要な意味持ったのは、彼が長く告知してきた北からの敵が、今や、ネブカドレツァルと彼に率いられて進攻してくる諸国民の中に、その具体的な姿を取って現れるという点にあります。言い換えれば、これは、今まで聞こえぬ耳に語り続けるばかりであったエレミヤの預言は、今や現実の歴史においてその成就を見たということを意味します。このことは、エレミヤにとって、彼の宣教の真理性が確かめられ、23年というほぼ四半世紀にわたって背負い続けていた緊張が最終的に解かれたことを意味しました。そしてこのことが、エレミヤの働き全体に新たな活力を与えることになりました。語れども聞かれないエレミヤの預言は、北からの敵の進攻によってその真実さが明らかとなり、その預言の重要性を民に印象づけることができ、エレミヤがまことに神からの召命によって立てられた預言者であることを自ら深く感じとることが出来たからです。

1節の「ネブカドレツァルの第一年」という日付は、古代オリエントにおける力関係の急激な変化を示すとともに、この世界史的な時期に、神の民に神のことばを告げ知らせる計画へと預言者を呼び出す神の時を示しています。

2節において、「ユダの民とエルサレムの住民すべてに」と、全住民が預言者エレミヤの聴衆として呼びかけられています。それは、民のすべてが集まってくる特別な機会、祝祭のときにおいてであろうと推察されます。

エレミヤの言葉は、ヨシュア王の第13年(前627年)の召命のとき以来の預言者としての自分の活動を総括的に振り返ることから始まっています。民の中で神に仕えながら倦むことなく働いた23年が過ぎ去り、今や、エレミヤが当初から繰り返し預言し、何とか民にそこから逃れてもらいたいと努力した災いが実現し始めました。それは、エレミヤにとって、預言者として自分の人生に重くのしかかっていた悲劇的な緊張から解放される時でありましたが、エレミヤはこの時を迎えてこの緊張が改めて心の置く深く過(よぎ)るのを覚えました。

5-7節には、悔い改めの呼びかけをする預言者たちの言葉が記されています。預言者たちは、背信の民に、「立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ」と悔い改めの呼びかけをしました。この呼びかけは、父祖に与えられた地においてとこしえに住むことが出来るという契約の約束が固く保たれるという恵みと希望のもとになされました。「立ち帰れ」と「住むことが出来る」の語がヘブル語では語呂あわせで用いられています。この悔い改めの呼びかけは、「悔い改めよ、神の国は近い」と呼びかける、イエスの宣教に繋がる線上に立つことばです。しかしこれらの言葉を記したのはエレミヤではなく、申命記的編集者と考えられます。エレミヤ自身は、悔い改めない民に神の審き手としてのバビロンの支配に従えとのメッセージを語っているからです。

申命記史家は、ここで、約束の地から引き離された捕囚の民に、約束の地に戻れる希望を悔い改める者に語っています。旧約における「約束の地」という地上的・物理的祝福は、神から賜る永遠の祝福を指し示す霊的な意味を持ちます。神に立ち帰ること、即ち、悔い改めの信仰は、永遠の命という霊的な恵みに与かる唯一の道です。この悔い改めの福音こそ、希望のことばです。

「しかし、お前たちは聞き従わなかった」という7節のことばは、悔い改めを迫る預言者たちのことばです。この最後の呼びかけに応えない者に残されているのは、もはや審きしか残されていません。北からの敵は、歴史の偶然による侵略者ではなく、それは、ヤハウェがその歴史的な状況の背後にあって働き、今やついに以前から通告していた「北からの敵」(バビロンのネブカドネツァル)を召し出し、神の民に対する審判を遂行されることを意味しています。

ネブカドレツァルの軍隊は進攻し、この地とこの地の住民を滅ぼすばかりです。かつて生きる喜びの声を鳴りひびかせたこの地を、今や、死の沈黙が覆います。もはや祝いの声は聞こえず、平和な日常生活の営みを示す挽き臼の音も聞こえず、家族の団欒を示す灯し火の光の輝きも見られなくなります。この地は全くの廃墟と化し、その住人はバビロンの王の奴隷となります。

奴隷状態が70年続くという記述は、概数として用いられているに過ぎません。それは、奴隷状態が捕囚民にとって一生涯に及ぶことを示しています。つまり、一度、捕囚としてバビロンに連れ去られた者は誰も解放の日を見ることが出来ないということを告げています。神の罰は現在生きている全世代に及ぶ!ということです。人の齢が仮に70年として、丁度捕囚のときに生まれた赤ん坊も異国で奴隷のまま死ぬということです。

エレミヤが長いあいだ預言してきたことが、今やこの神の審判によって実現するということが、エレミヤ自身のこの回顧の中で述べられています。エレミヤはこの迫り来る破局の最後の瞬間にあたっても、民が災いに打ちのめされて、悔い改めの道を歩むならば、赦しの道が準備されるという神にある希望を失っていたわけでありません。しかし、この民はエレミヤの言葉に最後まで耳を傾けませんでした。民の罪が次のように主の言葉として明らかにされています。

お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。(エレミヤ書25章8-9節)

しかし、この破局が人間によるものではなく、神からのものであるかぎり、そこには希望が残ります。何故なら、ここでイスラエルを滅ぼすバビロンは、主によって「わたしの僕」(9節)と呼ばれているからです。ですから、ここには、背信の民がその審きに徹底的に服することによって、備えられるところの救いが同時に語られています。

「わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。」(13節)という言葉は、その審きの中でその審きに服しつつ、悔い改め、聞く者に、この審きの言葉が福音としての意味を持つことを示しています。

罪に破れて捕囚として惨めな生き方をしている者にも、このエレミヤの言葉に真剣に聞き、悔い改めて主の道に立ち返るなら、「先祖たちに与えられた地に」再び住むことができるように神がしてくださるという希望が残されていることを、申命記史家は、このエレミヤに与えられた約束の言葉から見出し、同胞の民にそのように語り励ましたのであります。それはまた、私たちにも与えられている希望でもあります。

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