イザヤ書講解

73.イザヤ書65章16節b-25節『新しい創造』

イザヤ書65章16節b-25節には、過ぎ去った時代の苦しみが忘れられる、新しい創造としての主の救いが語られています。ここで思い起こされている「初めからの苦しみ」とは、バビロンに滅ぼされ、多くの者が捕囚とされる出来事を指しています。そしてこの言葉は、43章18-19節において、第二イザヤが述べた次の言葉を想起させます。

初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。

しかし、その意味がここでは少し変えられています。ここでは初めからの苦しみは神の眼前に隠されてしまった、といわれています。なぜなら、かつて苦しみをもたらせた神が、今やそれを終わらせようとしているからです。

苦しみから喜びへの転換は、「新しい天と新しい地を創造する」神の救いとしてなされます。しかし、それは古い天と地が滅ぼされて、それに変わって新しい天と地が創造される、という意味でそのことが語られているのではありません。そのような意味での黙示的な終末信仰はもう少し後の時代においてあらわれます。ここでは「天と地」という名で呼ばれるような驚くべき状態の一新のことが述べられています。

この一新の出来事は、とこしえの喜びと楽しみをもたらすものとして起こることが述べられています(18節)。その喜びへの呼びかけを受けているのは、エルサレムとその民です。それゆえ、ここでの世界の一新はただエルサレムとユダにのみ関係づけられています。

そして、新しいエルサレムのために定められている喜びは双方向的に述べられています。エルサレムの民が喜びへ呼びかけられているだけでなく、今や神もその新しい創造を喜ぶことができるものとして、次のように語られています。

見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(18-19節)

神の新しい創造によって変えられたエルサレムとその民には、もはや嘆きと泣く声が聞こえなくなるといわれています(19節b)。

かつてエレミヤは、「わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。」(エレミヤ書7章34節)、「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。『見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる。』」(エレミヤ書16章9節)と、エルサレムでの喜びが中断される審判を告知しました。

19節の言葉は、意識的にエレミヤの言葉を対比させて語られています。そしてこの言葉は、イザヤの黙示録といわれるイザヤ書25章8節の次の言葉と似ています。

死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。

この希望の原型として、イザヤ書51章11節の第二イザヤの次の言葉を想定することができます。

主に贖われた人々は帰って来て
喜びの歌をうたいながらシオンに入る。
頭にとこしえの喜びをいただき
喜びと楽しみを得
嘆きと悲しみは消え去る。

しかし、第二イザヤは、その喜びを、捕囚から解放されてエルサレムに帰ってくることのできる帰還の喜びとして描写しましたが、ここでは喜びの永続的な状態として描写されています。ここには、その意味での大きな慰めが語られています。捕囚の地にある者は、ただそこから解放されて故郷のエルサレムに帰れるということだけを喜びとして語ることができました。帰還した民が見たのは、バビロンに破壊された時代と変わらない悲惨なエルサレムの現実でした。しかし今や、エルサレムは喜びを、天と地を一新するような形で与えられる。しかも一時的な帰還の喜びのように失望に変わるものとしてではなく、永続的なものとして続くことが語られています。その喜びはどこまでも現在的で、現実的なものとして語られている点で、終末的・黙示的なものとは異なります。

旧約聖書においては、生命は充実した人生の意味で語られます。しかしその充実は若死にしない場合にだけ与えられるものと考えられています。この点で、イザヤ書25章8節の見方と異なっています。そこでは、神は悲しみの原因となる死さえ滅ぼされると語られていますが、ここではなお死が残る救いのことが語られています。その意味では長寿が永続する救いの内容として語られることになります。20節の次の言葉は、まさにその意味で語られています。

百歳で死ぬ者は若者とされ
百歳に達しない者は呪われた者とされる。

貧困、労苦に長くあえぐ生活で人々は短命で、しかも幸いを知らない人生として終わっていた現実を想起させる言葉です。そのような現実を生きる者には、この現実的な目に見える救いを語る言葉は魅力的であったかもしれません。しかし、第二イザヤや第三イザヤの語った神の救いから遠ざかっているという面も否定できません。

エルサレムの崩壊とバビロン捕囚によって味わったのは、家を失うことであり、実を結ばない、意味のない労働であるという意識が民の中に残っていました。しかしエレミヤは、捕囚民に向かって手紙を書き、29書5-8節において、次のように語り、捕囚の生活を受け入れ、そこで神に望みをおくように語っていました。

「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」

バビロンの地での生活は悲惨なことばかりであったわけではありません。その地においてイスラエルの人々は、ある程度の自由とある程度の豊かな生活も享受していました。しかし、ここでは敵の手によって再三土地を踏みにじられた人間の素朴な経験を語っている(ヴェスターマン)といわれます。敵の占領下にある人間の苦しい経験から語られています。自分が植えたぶどうの実を食べることができず、自分たちが建てた家に他人が住む苦い現実を味あわされた者の悲しみを一新させる労働の実りが語られています。

イスラエルは「わたしの民」「わたしに選ばれた者ら」として、その一生は木の一生のように豊かな実りをもたらすものとなり、無駄に労することも、生まれた子を死の恐怖にさらすこともない、主に祝された一族としての歩みが保たれるという祝福が語られています。

これをエルサレムとユダにのみ向けられた祝福として語られたものであるとするならば、第二イザヤが語った諸国民もその救いの中に入れられる喜びから大いに後退したものなっています。そこから排外的な選民主義のシオニズムの暗い影が忍び寄る感じをぬぐえません。しかし、この救いを主による選び、先行する主の恵みとしての救いが、現在はとりわけエルサレムに向けて、他者に先立って選ばれた民に対する変わらない愛顧の現われとして示されていると見るならば、この言葉の中からも普遍的な救いを見ることができます。

その意味で、24節の次の言葉は大きな慰めを与えてくれる言葉です。

彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
まだ語りかけている間に、聞き届ける。

悲惨な現実を前にして、主に向かって声をあげる前に、その苦しみの叫びを知る主が答え、主に向かってまだ語りかけている途中であるのに、その願いを実現してくださるという、破格の救いが語られています。呼びかけと答えの中で神への通路が与えられるところに、生の源泉への通路は開かれています。主はそのご計画の中で、先ずエルサレムとユダを選ばれましたが、この選びは苦難にあえぐすべての民に向けられ、主の呼びかけに答え、主に叫び声をあげるすべての主の民に向けて約束されています。そのように聞くことができますし、そのように聞かなければこれらの言葉は私たちに何の慰めも希望も与えないものとなってしまいます。この言葉が後の時代の人が読み、世界中の人々が読むことができるようになったのは、その成就者として来られたイエス・キリストの救いが実現したからです。その光から、主に選ばれた町(教会)、主に選ばれ民に与えられる慰め、希望、喜びとして、わたしたちはこれらの言葉を読むことができます。

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