申命記講解

13.申命記11章1節-32節『主を愛し、主に仕えるならば』

前回、申命記には、古代オリエント世界で用いられていた「契約定式」が多く用いられているという説明をしました。宗主国の王が、自分の封臣と宗主権条約を一定の型の規格はめ込んで結ぶ傾向があることをお話ししました。そして、その型には、(1)前文、(2)前史、(3)原則の宣言、(4)細則、(5)神々を証人として召喚すること、(6)呪いと祝福、という構成要素があるということをお話ししました。

本章の2節-12節には、上記の規格の(2)前史に該当する歴史の回顧がなされ、その前史における失敗を主の教育的訓練としてとらえ、その前史において犯した失敗を二度と繰り返すことのないように、警告する言葉が記されています。

2節の「あなたたち」が主の訓練を経験した世代であることを知れ、と言うのは、改革の担い手ヨシヤ王がエジプト王ネコとのメギドの戦いで戦死(前609年)し、ヨシヤ王とともに改革の担い手となった人たちが宮廷から追放された経験を、荒れ野時代での試練と重ね合わせている言葉であると考えることができます。ですから、出エジプトでの出来事への言及や、「あなたたちは自分の目で見てきたこと」(7節)への言及は、エジプトに隷従している現実を批判する視座からのものであると考えることができます。
その現実が生じた原因についての正しい認識を求めつつ、約束の地で「長く生きることができる」(9節)かどうかは、「わたし(モーセ)が今日命じるすべての戒めを守る」(8節)かどうかに係っていることを、モーセの言葉として告げています。

しかし、実際は、バビロン捕囚を経た時代の編集者による説教であると考えるべきでしょう。イスラエルを支配する強国が南のエジプトではなく、北のバビロンという強国に代わっても、イスラエルは結局、バビロンによって滅ぼされました。そして、エルサレムの神殿は破壊され、王をはじめ、祭司(第二イザヤやエゼキエルなどの預言者も含まれている)、技術者等々、国の主だった人々が捕囚とされた時代を経て、なぜ、ダビデの王国は永遠に存続すると言う預言が語られていたのに(サムエル記下7:12~16)滅んでしまったのか、預言者たちの言葉にも心にとめ、その原因を探求し王国の衰亡史を申命記の神学に基づいて記したのが「申命記史家」と呼ばれる人々です。この箇所は、そういう人々の編集の手によるものではないかと考えられる箇所です。それを、モーセを通して語られた神の言葉(律法)に聞き従わなった結果として見る視座からの、新しく語りなおされた説教であるということができるでしょう。

あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。(10,11節)

エジプトでは水路などの設備が整っていて、農作業は人工的灌漑設備のお陰で、主(ヤハウエ)との出会いがそこでは乏しかったが、約束の地カナンには天から降る雨で潤されるが、それはカナンで崇められている偶像の神バアルではなく、真の神(ヤハウエ)の恩恵に依存することを明らかにするのが、10,11節です。

13節-32節は、上記(6)の祝福と呪いが述べられているところです。

祝福と呪いを宣言する時に「もし…ならば」という文体を用いるのは、聞き手の決断と責任を求めるためです。13節の「わたしが今日あなたたちに命じる戒め」の「わたし」はモーセですが、「わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる」(14節)、の主語は、主(ヤハウエ)です。「秋の雨」は、ヘブライ語原文は「前の雨」で、10月から11月にかけて降り始める雨で、土地を耕し耕作の開始を促すもので、この雨が十分降ると豊作が期待できました。「春の雨」は、「後の雨」で、3月から4月にかけて降り、作物の生育には欠かせないもので、祝福のしるしと受け取られていました。主の戒めを守り、主に聞き従うなら、その約束の土地で主が雨を降らせ、「あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある」(14節)と言う祝福が約束されていました。しかし、約束の土地カナンは、バアル宗教が崇められていた土地で、先住民は豊饒をもたらせる雨はバアルの恵みと考えていました。だから、主に選ばれたイスラエルの民が、バアルであれ他神を崇拝するなら神の呪いは、「あなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る」(17節)とという形で表されるとの警告が与えられています。

22節は13節と重ね合わせて読むことが求められています。24節の「西の海」は、ヘブライ語では[後の海]です。「前」は、東を意味し、後は西を意味し、地中海のことです。エジプトへの隷従関係を切断し再び主(ヤハウエ)につき従うならば、と勧められる時代に生きた王は、エジプトの傀儡王とされたヨヤキムの時代です。しかし彼は、結局、主に立ち帰ることありませんでした。
「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く」(26節)と語るのは、神ではなく、モーセです。26-28節の祝福と呪いを語るのはモーセです。ゲリジム山とエバル山は、シケムに近いモレの樫の木イスラエルの聖所を挟んで、西にゲリジム山が東にエバル山がありました。モーセが祝福と呪いを北イスラエル王国の聖所におくという発想は、ヨシヤ王が行なった中央聖所への祭儀集中の改革に抵触し、これはヨシヤ時代のものではありえません。30節の土地についての東西の使い方も、これらの語を挿入した編集者が約束の地を離れたところから、祖国に思いを寄せて「ヨルダン川の向こう側」について語ってます。「ギルガルの前方、モレの樫の木の近くにある」という地理的言及はあいまいです。「モレの樫の木」はシケムのすぐそばにあります(創世記12:6、師士記7:1)。しかしエリコの近くにあるギルガルはヨルダン渡河伝承と結びつく聖所(ヨシュア記4-5章)で、シケムまで約50キロもあり、前方という表現はあいません。

これらの言葉は、主の律法の授与者であるモーセが、それぞれの時代の民に、「今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。」(32節)と語っているところに重要な意味を持っています。主から御言葉(律法)を授けられたものが、それを主の言葉(意思)として聞くように求める、ここに説教者の果たすべき役割があります。モーセの役割は、決してそれ以上でも、それ以下でもありません。その権威はモーセによるのでも、後の時代の説教者によるのでもありません。ただこれを授けた主なる神ご自身の権威によるのです。その主と説教者の関係を正しく理解し、主の選びの民は、その説教に聞くのです。その言葉に耳を閉ざし、心を他神に向け、偶像に向ける時、その者に向けられるのは呪いであります。しかし、心を主なるヤハウエ、その救いの成就者として来られたイエス・キリストに向け、聞く者には、祝福が与えられます。その様なものとして、わたしたちも聞く者でありましょう。

もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。(申命記11章13,14節)

この約束の言葉は、エデンの園の回復を思わせる慰めに満ちています。それは、イエス・キリストの再臨の日に実現する新天新地の祝された喜びの命の充満の時をも示す言葉としても聞くことができます。

旧約聖書講解