エレミヤ書講解

26.エレミヤ書16章1-13節 『象徴預言とエレミヤの生活』

16章はエレミヤの個人的体験と告白の言葉からなっています。旧約の預言者には、ことばだけでなく、預言者自身の行為や生活を通しても、神の言葉を告知する道具として用いられることがしばしば見られます。預言者に見られる象徴表現や行動は、来るべき出来事を先取りするものとして、歴史を形成する力を備えた神の言葉になっています。ホセアやイザヤが彼らの家族をもって神の言葉に仕えた如く、エレミヤも全生涯をもって神に仕えています。エレミヤの「私生活」さえも、神の命令に仕えているのです。16章は、エレミヤの私生活に神が様々な形で介入することが述べられています。しかし、この箇所の文体と言い回しに関して、申命記的著者による注記があることを指摘する学者(ニコルソン)の意見もあります。特に10-13節についてそのことが指摘されています。

1-4節において、エレミヤに告げられたことは、妻子を持つことの放棄です。「あなたはこのところで妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない」(2節)という命令は、時代の深刻さの故に妻子を持つ楽しみを抑制すべきだというので与えられたのでも、あるいは預言者の任務の大きさの故に家族を持つとその働きの障害になりやすいから、という理由で与えられたのではありません。それは、神がイスラエルになそうとしている審判を告知する課題を与えられている預言者の生活を通してその審判のメッセージを伝えようとする神の意思からでた命令にほかなりません。

背信の民は、その罪の結果、家族が破壊され、子供があってもない者のように、弱り果てて倒れても助けるものがなく、嘆く者もなく、死んでも葬ってくれる者もなく、その屍は土の肥やしとなり、空の鳥や野の獣の餌食となる(4節)、と言われています。その苦しみは、侵略者の「剣」の攻撃を受け、自然の飢饉が追い打ちをかけるようにして襲ってくることによってもたらされます。しかし、侵略者の「剣」も「飢饉」も、ともに神の審判の道具として用いられることが明らかにされています。そのように神の審判の意思が表されています。

妻を持ち子供を持つことが許されず、家族がなく自身の死を見取る者のいない預言者エレミヤのその孤独な生涯は、神に背くイスラエルの将来に起こる状況を先取りする神の啓示の手段です。神はエレミヤにこの厳しい課題と選択を迫りました。それは、たとえ人間的に躓きを覚え倒れようとも、預言者としては聞き従わねばならない神の意思でした。預言者はこの神の審判の意思を伝えるために、独身のまま孤独な生涯を歩んで行きます。それは、ホセアに命じられた結婚生活ほど、人々の関心を惹くことはなかったかもしれません。しかし、エレミヤの独身生活における孤独は、イスラエルにやがてもたらされる厳しい審きの現実を示しています。
エレミヤに命じられた第二の禁止は、弔いと死者への嘆きの禁止です。それは、5節において、「あなたは弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表すな。わたしはこの民から、わたしの与えた平和も慈しみも憐れみも取り上げる」、と述べられています。

これは、民から救いと恵みと憐れみとを取り去る神の行為を明らかにするものです。エレミヤがヤハウェの命令にしたがって、死人を出した家に弔いに行かず、弔意と慰めのことばをかけることを避けねばならなくなったとき、そのことによって、エレミヤは人々の感情を損なうことになったに違いありません。

このような預言者の振る舞いもまた、未来を担う神のことばの力を内包していました。富む者も貧しき者も、王も名もなき小さな者も、恐るべき刈り入れの時が来たなら、たとえ今、このように語るエレミヤに憤ったとしても、結局はエレミヤがその行動をもって語るとおりの結果がもたらされることになることを知るようになります。その時になれば、彼らはみなことごとく死んでしまい、通常の葬礼を施す者など、もはや誰もいなくなるからです。

6節の「葬り」「嘆き」「体を傷つけること」「髪を剃ること」などは当時一般に行われていた葬礼慣習として述べられていますが、エレミヤはこれに対して特別な態度を表明していません。しかし、これらの儀礼行為は、呪術的、諸霊崇拝的起源を持っていると考えられます。

これらの儀礼行為は、申命記14章1-2節において、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」、という理由で禁止されています。

死者の家で供される飲食(7節)は、ヤハウェ信仰から見れば、不浄なものでありました。ところが、この民は死者に飲食を供えることを慣わしとしていたのです。民は、そのような間違った死者への強い思いを断ち切ることのできないほど異教の習慣に染まっていました。その民にくだされる神の審判は、その行為に対するアイロニーを含みながら、人の生を支配しているのは人の思いではなく、神の意思であり、神の意思に従わない生の最後の惨めさを知らしめるものです。

第三に、エレミヤが命じられたことは、喜ばしき友との交わりの放棄です。親しい友人との酒宴の席は人生の楽しい一時です。しかし、エレミヤは神からこのような友との楽しい交わりを放棄することを命じられ、あらゆる喜ばしい行為を終わらせるという神の審きを、彼自身の喜びのない人生を通して表現しなければならなかったのです。この神の審きの理由は、ここでは威嚇のことばとして民に向けられています。それは、民に向けられた説教という形を取りつつ、花嫁と花婿の喜びの声が絶えてしまうという意味深長な比喩の中で繰り返されています。それは、15章17節で示されたエレミヤの苦悩を想起させるものであります。

このエレミヤの体験は告知されるべきものであることが10節において明らかにされています。しかし、この箇所は申命記的著者による注記である可能性があるといわれているところです。とすれば捕囚の現実を、エレミヤの告知に対して、自らの罪を認めず、開き直った民にもたらされた神の審きの結果として捉えられています。そして、父祖たちが異教の神々へと堕落していった事実から出発し、「律法」を守らなかったことに根本的な原因があることを明らかにしています。それは、ヤハウェのことばにまったく聞き従わなくなった今の世代の人々の振る舞いの方が、一層質の悪いかたくなな態度である、ということを示すためです。

そして、13節は、民が約束の地から「追放」され、見知らぬ国に捕らえ移されるという預言を語っています。そこで、異教の神々に仕えるその姿は、ヤハウエに従わず、異教の神を崇拝した民にふさわしいヤハウエの審きであることが述べられています。神の恵みと忍耐を軽んじ、神の最もいみ嫌われる異教の偶像の神々に仕えるこの民にふさわしい扱いをすることによって、神から見捨てられるということがいかに惨めなものであるかを知らしめる神の審判の方法であることを受けて明らかにしています。「お前たちに恩恵を施さない」という神のことばは、現在の惨めな生活を神の審きの現実として受け止めるよう捕囚の民に促す意味があります。

しかし、それは、やがて来るべき神の決定的な審判に比べれば、取るに足らないものです。それは、エレミヤの生涯に刻まれている「しるし」を、民の将来の審判の「しるし」として示されていたことを、いまなお、捕囚の現実から見ようとしない者は、神のあわれみによる回復を期待することができません。その意味では、この預言者エレミヤの受難体験は、罪人の罪を背負って死なれた十字架のイエスを見る信仰を求めています。エレミヤは、その受難の生涯を通して、十字架のイエスを指し示す預言者として立っていたということを深く心に刻むことが大切です。

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