アモス書講解

9.アモス書5章1-3節『挽歌』

ここに歌われているのは、一定のリズムからなる挽歌です。アモスはイスラエルの民への挽歌を歌いました。多くの人々が喜ばしい祭典を祝うために集まって、祭りの華やいだ喧騒と喜ばしい歌声を上げていた中に、アモスが現れて、突如挽歌を歌い出しました。その陰気な調べの流れに、その喜びの歌は沈黙させられ、群集は驚いて聞き耳を立てました。

このような情況の中で挽歌を歌うことによって、アモスは、預言者として、自分の告げる神の言葉に耳を傾けさせる事に成功しました。しかし、アモスは単に人々の注目を集めることをねらったのではありません。本当に同胞の死を悼み、血を吐く思いで己の民の没落をアモスは告げたのです。そして、この民を死に定められた神への畏れを、この挽歌において表しています。

2節の言葉と3節の言葉は、区別される必要があります。2節はアモス自身の言葉ですが、3節は神の言葉であるからです。神の啓示の言葉を受け取ったアモスが、自らの感情、思いを、2節において表明しています。アモスは、無表情に感情も個性も持たないひとりの預言者として神の言葉を取り次いでいたわけではありません。そこに同胞に対する彼の血を吐く思い、憐れみの心が表されているのを読み取ることが大切です。

アモスは、イスラエルの没落について強い確信を抱いていました。アモスは、イスラエルの罪を厳しく断罪する預言者に、「預言するなと命じ」(2:12)、その声を聞こうとしないイスラエルに向かって、「その日には裸で逃げる、と主は言われる」(2:16)審判を告げていました。それゆえ、アモスはこの確信立って、将来にある事柄を、既に生じた出来事の如く語っています。神の計画された破壊の業を阻むことの出来るものは何もありません。アモスは、「おとめイスラエル」と言い、人生の夢、喜びを満たす前に、早く死んでいった娘の悲しみを歌っています。

乙女が、結婚することもなく、子を持つこともなく、また、自分の子供を抱いてその乳房を愛する子に含ませることもなく、若くして死なねばならない悲しみは、エフタの嘆きと共に、その娘の嘆きとして士師記11章34節以下に記されています。

アモスは、その死を告げるイスラエルを、「おとめ」(娘)と呼んでいます。地に「倒れて再び起き上がれず、地に捨てられて、助け起こすものはいない」というその悲惨な現実の到来を、アモスは、あのエフタの心境をもって告げねばならなかったのです。そこにアモス自身の嘆きがあります。預言者は、民と同じところに立ち、その苦難を共にする存在であることにおいて、アモスも例外ではなかったのです。

古からの約束によれば民にとって祝福の地たるべきその土地が、何者も救うことのできない崩壊の舞台となるというのです。浮き浮きした気分で祭りを祝っている人々に向かって、アモスが将来の恐るべき情景を敢えて提示したのは、神の真理を明らかにするために如何なる敵も恐れない、という彼の勇気を証しする出来事でありました。しかし、それは彼の思想や歴史に対する洞察力の深さを示すものではありません。アモスのこの将来に対する知の背景には、政治的文化的に安定したヤロブアム二世の時代において、国の間近な崩壊を暗示する如何なる兆候も存在しなかったからです。それゆえ、アモスの言葉は、民と彼らの神に対する背信的な言明として、狂人の戯言(ざれごと)としか聞こえなかったのです。

しかし、預言者にとって重要なのは神の真実です。そして、この神の真実性は、往々にして人が最も予期しないところで、あらゆる人の打算や理性に抗して、貫き通されるものです。アモスはただ神の真実に立って、これを告げています。

アモスが自分の確信を、ただ神の啓示から得たということは、その挽歌に与えた3節の根拠づけの言葉から明らかです。「まことに、主なる神はこう言われる」と、それが神の言葉であることを明示しています。神の言葉に、預言者の言葉の第一の根拠があります。

来るべき戦争において、民の被る損害は、全滅にも等しい9割にも上ることを、アモスは告げます。戦争において大敗する民に、神が不在か無力であると敵から判断される風潮の中で、アモスはこれを告げています。

しかし、死者の数の背後には生ける神がおられます。その力強い介入は、戦いの喧騒の中でも認めることが出来ます。その恐るべき審きは、諸民族間の戦争の中で明らかにされます。神はご自身の法(意志)に従って歴史の中で行為されます。神の意志を満たさず、神の目的に役立たない民は、神の民としての存在理由を、その歴史の中に示し得ないので、歴史から取り除かれ、その存在を失うのです。イスラエルの全滅にも等しい大敗の事実が、これを明らかにすることになる、とアモスは告げます。

アモスは、イスラエルに対する神の審きを正当化するための、如何なる根拠も挙げていません。その審きの確実さと真剣さとを、人間の洞察に結び付けることを、アモスはしません。神には、常にその行為を弁明する必要がないからです。神の行為が人間の目に不可解であるからといって、その現実性や真剣さを軽く見ることは許されません。

預言者の神信仰における確信および信仰的服従にとって、神の行為の根拠に関する彼自身の知識は必ずしも重要ではありません。アモスは、隠れた神に対面しているところにおいてさえも、信じ従うのです。

だからアモスは、他の預言者のように、民に注意を与えたり、警告したりすることに意を用いることをせず、ただ民を神によって直視せしめられた彼らの没落に対面させ、彼らに、この神に対して逃げ道も救いもないという状況を衝撃的に自覚せしめることで、満足する立場にとどまります。

このアモスの信仰こそ、まさに主イエス・キリストにおける十字架の言葉を聞く者に求められます。人間の目には不可解でも、神がなされることとして理解する信仰、しかし、神は自らの言葉と約束に従って自ら約束したことを成就されるお方であることを、預言者は指し示します。審きがそのとおり起こるところにまた、神の言葉の真実があります。神はご自身の法(意志)に従って歴史の中で行為されます。神の意志を満たさず、神の目的に役立たない民は、神の民としての存在理由をその歴史の中に示し得ないので、歴史から取り除かれ、その存在を失うのです。

しかし、それでもなお、神の憐れみがこの審判の言葉の中にあります。「生き残るのは百人」「生き残るのは十人」と告げる言葉の中に、それは示されています。神の審判を免れる者がたとえわずかであっても残されています。そして、この残りの者の存在を、この審判の中で告げられていることの中に、民への悔い改めへの招きが含まれていることを示しています。神の憐れみによって、ひとりひとり「残りの者」とされる道を祈り求め、悔い改めることがこの審判の言葉に期待されています。ここにアモスは悔い改めへの可能性を示していることを見逃さないことが大切です。そして、この後に民に立ち返りを求める主の言葉をアモスは告げています。5章1-3節を4節以下に結びつけて読むことが大切です。

旧約聖書講解