ホセア書講解

16.ホセア書7章8-16節『愚かな鳩ように』

ここには二つの預言が記されている。8-12節には外国の権力との関係での批判の言葉が記され、13-16節には、ヤーウェに背を向けバアルに向かう堕落した民に向けられた、預言者の叱責の言葉が記されている。いずれの預言も、北王国イスラエルの最後の王ホセアの時代のものであろう。

8-12節の預言は、さらに二つの部分に分かれている。8節では、イスラエルは裏返さずに焼かれた菓子と比較され、11節では、愚かな鳩と比較されている。これらの比喩は、いずれもイスラエルの外交についてのものであるが、前者はその内的結果を語り、後者は、その愚かさを語っている。この言葉の前提となっている歴史的状況から判断して、イスラエルの最後の王ホセアの時代について語った預言であろう。その頃王国は、領土を侵食されて縮小し、外交は、アッシリアへの依存かエジプトとの友好かに迷って途方にくれていた。

さて、8節においてホセアは、イスラエルの直面する現実の本質的な問題を取り上げている。イスラエルは、「諸国民の中に」あって、「交ぜ合わされ」、そのため主の民としての固有の本質を失い、その生命力が危険にさらされている現実を明らかにしている。異教の諸国の間にあって、政治・宗教・文化等あらゆる面において、イスラエルがその独自な神との関係からくるあり方を忘れた、混乱した姿の本質を突く言葉がいきなり語られるところに、預言者の激しい憤りが表されている。

ホセアは、激しい口調で日常生活から取った比喩による皮肉を語る。当時、パンは、熱い灰や熱した石で焼かれたが、焼く時に適宜裏返さないと下側だけ焦げて、上から見ただけでは、どれだけ焼けているかよく分からなかった。「裏返されずに焼かれたパン」とは、イスラエルが自らの置かれている現実を、そのように正確に認識する目を持たないでいる姿をさし、皮肉交じりに預言者はこれを語っている。

ここで、預言者が繰り返しイスラエルのことをエフライムと呼んでいるのは、度重なる大国の侵略を受けて領土がやせ細り、エフライムの山岳地帯だけが残った姿もイメージされているかもしれない。いずれにせよ、エフライムは介入させた外国の勢力が自分の力を食い尽くしてしまっていることに気づかないし、知らないうちに自分の独立を失い、衰退していく民の老化現象が表われていることさえ気づかないでいる様が、「白髪が多くなっても彼はそれに気づかない」という言葉でたたみかけるように語られている。

ホセア王は、ティグラテピレセルの存命中は忠臣として振る舞い、大王が死ぬとエジプトの王ソと結んで貢納を中止し、アッシリアからの独立を企てたが(列王下17:3-4)、エジプトは実効性のある援助を行わなかった。ホセア王は、ティグラテピレセルの後を継いだシャルマネセル5世によって撃ち破られ、捕らえられアッシリアに送られることになるが、ホセアがここで念頭に置いている政治上の出来事は、アッシリアへの追放とかエジプトへの移住のことよりも、むしろ、大国の対外政策への依存の姿勢に対してであった。そのために使節を派遣し(11節)、その見返りとして、イスラエルの政治、文化、宗教に対する外国の影響・支配は避け得ないものとなった。大国の支配と保護を求めることは、こうしたすべての支配・受容を受け入れることを意味していた。そればかりか、そうした外国の風習や文化を積極的に過度に受け入れ、自発的に真似て、豪奢な生活を喜ぶ民や指導者の姿がそこにあった(アモス3:12)。しかし、ホセアにとってそのような王や民の態度こそ、時の徴に無関心で、警戒心の無さを物語るものであり、ヤーウェの民として立つべきこの国の衰退ぶりを示すものであり、その事態に気づかない最悪の事態であった。

こうしたものに目をくらまされながら、なお、イスラエルは外国との関係を誇り、その状態から生じた成果を誇っていた。しかし、それこそ預言者ホセアにとってヤーウェの民の崩壊の明瞭な証拠として看過できないものであった。

ホセアは、この民に向かって、「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である」と語った。他の人々が政治的な現状の目立つ面にしか目が行かない状況の中で、ホセアは、神の告発の言葉を聞き取る。ホセアは、過度の外国化(=異教化)に対して、はっきりした言葉でもって、唯一の正しい道を立てる。

「彼らは神なる主に帰らず」「主を尋ね求めようとしない」(10節)とホセアは告発する。ホセアは、この告発によって、神に向かうことこそが、ヤーウェの民にとって諸国の中でその特別な使命であることを示す(出エジプト19:6,民数23:9)。イスラエルがイスラエルでありうるのは、真の神ヤーウェに帰る道を見出すことである。それが本来のイスラエルのあるべき態度であり、イスラエルの民の歴史の意味は、危機迫り動揺する運命の中で、神から与えられた機会を無感動・無思慮・盲目のまま行き過ぎてしまうのでなく、再三、その危機の中で差し伸べられる神の御手を捉えることである。

そして、ホセアは11節において、アッシリアにより頼むか、エジプトに行くかと揺れ動いている、王ホセアの無目的な日和見主義的な政策を、臆病にあちこち飛び回る愚かな鳩を比喩にして叱責している(11節)。ホセア王の外交政策には、神に根拠を持つ責任という確かな基礎が欠けていた。同時代の南王国ユダの預言者イザヤは、同じように動揺するアハズ王に対して「信じなければ、あなたがたは確かにされない」「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ7:9-10)と断固たる決断を求めている。人間の助けによる見せかけの可能性を求めて当所(あてど)ない出来事の中で、民が途方にくれて右往左往するのは、神への信頼と、信仰が欠如した結果に他ならず、神への信仰を欠いた判断は、常に誤っており愚かである、という認識において、ホセアはイザヤと同じ所に立っている。

しかもホセアは、人間は神から逃げ出せないことを明らかにする。イスラエルは、神なしにその助けを大国に求めるが、神は、網によって鳥を捕らえる人のように捕らえ、その裁きを免れると信じている民を、捕まえる。イスラエルは、それら大国もまた、神の審きの手として用いられている存在でしかないことを忘れている。網を張るのが神であるならば、この事態を支配しているのは神であり、事柄が神の主権の下で行われている。しかし、そうであるなら、この審きに服する民にも望みのあることが示されている。

なぜなら、この国の滅亡、民の審きは、強国の気まぐれによってもたらされたのでなく、「神なる主に帰らない」罪に対する審きとして示されているからだ。神の網にかかったのであれば、悔い改めて帰る道としての審きであったことが、示されている。読者は、この審きに、福音を見ることができる。

ホセアはさらに、13-16節において、民の不信の根本に立ち返って、その在り方を問う。「災いだ」との言葉を持って、民の罪の真相に迫る。イスラエルの第一の危機は、強大な強国の狭間に位置していたことでない。それは、神の約束の地であり、神の配剤の結果でしかない。その中でヤーウェの助けを受け、その言葉に聞き従うことによって、恵みを受ける民としての道が、用意されていたのである。しかし、ヤーウェのあらゆる助けにもかかわらず、イスラエルが、ヤーウェに対して不信を重ね続けた。その苦い失望を、預言者はこの言葉によって、吐露しているのである。イスラエルは、バアルに向かうことによって、神の恵みを拒み、忘恩と敵意を示した。ホセアの叱責は、バアルに向かう、堕落した民に向けられている。

王国の滅亡の時に至っても、人々は、最後までバアルをヤーウェと並べて、あるいは口ではヤーウェの名を呼び求めつつ、ヤーウェの本質を否定し、バアルを求めていた。ホセアは、ここで外面的な個々の過ちを糾弾しているのではない。民の態度の背後に潜んでいる、内面的な不真実全体を、問題にしているのである。神ヤーウェは、民をエジプトの奴隷状態から解放し、苦難の中から再三再四救い出した。民は、その神の救いに感謝するのが当然であるはずなのに、ヤーウェの救いと恵みに、忘恩と不信をもって報い続けてきた。この民の忘恩と背信に対して「災い」が告げられている。背信に対する報いは、「滅び」であると預言者は語る。

しかし、イスラエルは相変わらず神の救いを認めようとしない。その富も成果も自分自身の力や外国の助けのせいにし、農耕の賜物を配慮する時は、ヤーウェに全身をもって自らを捧げず、祭儀によって、騒々しいエクスタティックなバアル宗教に没頭する始末であった。預言者エリヤと対決したバアルの預言者の行動が、列王記上18章28節に記されているが、そのバアルの預言者の行動と同じ行動が、ヤーウェの名をもって行われる祭儀の中で行われたことが、14節において明らかにされている。「寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つける」行為は、ヤーウェに「背を向け」るものにほかならず、ヤーウェに「心から助けを求める」行為ではなかった。むしろ、ヤーウェを冒涜する行為であった。このように、彼らの信仰心は、ヤーウェの目には、ヤーウェへの反抗を示し、決してヤーウェに向かうものではあり得なかった。

彼らの関心は、専ら神を自分の望みのために役立てることしかなかった。ホセアは、それこそがイスラエルの背信の罪の本質であり、反抗の態度であり、偽りであると見た。だからホセアは、「わたしには背を向けている」という主の言葉を、厳しくイスラエルに向ける。

神の助けを自分の望みの充足としてしか見ない民は、根本的に神ヤーウェから離れて偶像(バアル)に向かっているのである。それは、「ねじれた矢」が、的を外して飛んでいく姿に過ぎなかった。16節の「むなしいもの」とは、ヤーウェに全幅の信頼と服従を寄せることを忘れた民の態度全体を指し、宗教的には、「バアル宗教」に向かう態度をさし、政治的には「大国」に依存する態度をさす。しかし、このヤーウェの選ばれた民としての標識を失った姿は、神の目的にとって不毛であり、その意味で、本来の的(目的)に向かう「矢」の「ねじれ」として語るホセアの言葉に、重みがある。人間は、神の創造の目的の道具として造られた存在であり、イスラエルは、その目的の成就のために選ばれた民であった。しかし、イスラエルは逆立ちして、神を自分の望みの手段として用いようとした。ここにヤーウェから離れ、バアルに向かう原因がある。しかし、この世界と歴史は、神のものであり、神の目的に仕えるものである。イスラエルは、この神に仕えることによって、神を啓示するものであったから、神の意志を第一としなくなった時、役に立たない道具として棄てられる運命にあった。

イスラエルが、ヤーウェを冷笑してエジプトにより頼んだ時、そこに待ち受けていたのは望んだ救いではなく、その剣によって倒され、同盟仲間であると思ったその地で仲間から笑い者にされる、というものであった。こうして、ホセアは、彼らが望むような形で逆手を取ってなされる主の審きの峻厳さを語り、イスラエルに示される「災い」を示す。

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