エレミヤ書講解

24.エレミヤ書14章17節-15章9節 『エレミヤの嘆き』

14章には二つの嘆きの歌が記されています。第一の嘆きの原因は旱魃でありましたが、17節以下に記される第二の嘆きの原因は旱魃ではなく、戦争です。戦争による惨状は降雨の欠乏によって一層ひどくなる光景がここに描かれています。その歴史的背景には、おそらく、前597年にバビロンがユダに侵入して、その結果として起こった荒廃と捕囚の出来事があります。

17、18節は、14章1-6節における嘆きの場合のように、この嘆きをも国民の苦境の辛らつな描写で始められています。17、18節の歌には、町を出たところには戦闘で撃ち殺された者たちの死骸が転がっており、町の中には敵の包囲による激しい飢えがあり、民の精神的な指導者たちである祭司と預言者が判断力を失ってうろたえている様子を見た預言者自身の嘆きが歌われています。

その絶望的な状況の中でエレミヤはその先頭に立って民のために執り成しの祈りをする者として、嘆くこの契約共同体と自らを一体化させております。ここには旱魃の嘆きと比べものにならない、より厳しく、より重苦しく、深刻な嘆きがあります。

19節の、「あなたはユダを退けられたのか。・・・いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ」という言葉は、この破局的な事態に直面し、心の中で整理が付かない民が、なぜ自分たちが破滅しなければならなかったのか、その理由を執拗に尋ねています。神の救いを期待したのに、それが与えられず、その待望が空しかったと失望した民が、契約に基づき、手探りしながら問いかけています。神は自分の民を全く見捨て、理解を絶する仕方で本当に見捨ててしまわれたのだろうか、この選びの民に対して本当に辟易してしまわれたのだろうか、という問いかけです。このような問いには、旧約聖書における神の関わりの大切な基礎である契約についての認識、すなわち、その民に対する契約に基づく神の愛についての認識と憧憬とが語り出されています。

したがって、20節の罪の告白もまた契約の思想の中から出てきています。この罪の告白は、神の審判の正当なる権利の承認が含まれています。

しかし、このように神の審判の下に平伏すことの中から、「我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。・・・」(21節)という神の恵みを請い願う祈りが生まれてきます。民に残された唯一の希望は、神の恵みです。神は契約を破棄する権利を持っておられるが、なお民との契約に誠実であり給うという神の愛と恵みにのみ希望を置くことです。そして、まさにこの信仰から、22節に見られるヤハウェに対する神の真実の告白が生まれます。

これらの祈りは、民の名を持ってエレミヤが行った嘆きの祈りであり、預言者としての執り成しの祈りでありました。そこには、神が様々な願い求めを聞き届け、救済の約束をもって民の契約を更新してくださるように、との期待がありました。

契約の民は、神と共にあってこそ命の状態が保たれます。だから、神なしには死以外はありえません。追放された者たちの口から、「どこへ行けばよいのですか」(15章2節)という、神に見捨てられて途方にくれた絶望の問いかけに、エレミヤはなお、神の命令によって、次のような厳しい、裁きが続く現実を語らねばならないのです。

ヤハウェ自身が、既に自ら定めた死刑執行者に、それぞれの判決を執行させ、苛酷で、残る者もない滅亡へと民を至らしめるというのです。神はこの審判において、ご自身が創造者としてこの自然と世界の歴史の主であることを自ら証明されるのです。バビロンさえも神の審判の道具にすぎないことが明らかにされます。

1節と3-4節は、申命記的著者による注釈であると考えられます。エレミヤの有名な先輩であるモーセやサムエルの祈りでさえ、現在の状況を変える執り成しは不可能であることを語る1節の言葉は、民の罪はかくも深く、神の審きを取り消せないことを語っています。申命記史家の判断において、マナセはどの人とも同じくらい、いや、ほとんどの人以上に民の背信を奨励し、これを導いたものとしてその名が記されています。そのマナセについて列王記下21章11-16節に語られています。

マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした。

マナセは、契約の秩序に属する基本的な義務に違反し、ヤハウェへの真実を絶って、契約を破棄した者としてこのように覚えられています。そして、マナセと同じように罪を重ねた歴代のユダの王も民も、その背信の罪によって、神の契約に基づく恩恵に生きる権利を自ら捨てたので、神はそのものに相応しい仕方で彼らを捨てられる、これが神の審判の方法であると見るのは、あくまで申命記史家の判断ですが、エレミヤ自身はそのようにばっさりと語ることはできません。エレミヤは、「わたしの目は夜も昼も涙を流しとどまることがない」(14章17節)という、民の嘆きへの共感の心を保持しています。エレミヤは涙を流しながら、厳しい神の審判の言葉を告げているのです。

15章5-9節の厳しい審きの言葉は、神は反逆する民を容赦なく罰するというテーマを受け継いで語られています。神の審判を逃れうるものはいないことを語る背景には、やはり前597年にバビロンがユダに侵入したことがあります。

7節の言葉は、その時になされた捕囚のことを語っています。その時なされるエルサレムの町の破壊、惨状が8,9節において述べられています。

「太陽は日盛りに沈み」という言葉が、その嘆きの深さを物語っています。戦争で、若者の母も、後を継ぐべき若者も皆、敵の剣にかかって死ぬことは、希望のときを表わす「日盛り」を「日没」に変えてしまう絶望を表わしています。エレミヤがそのような現実を語ることは、その繊細な心には耐えがたい苦しみを与えることになります。エレミヤの涙にもかかわらず、神の審きが寄り厳しく明らかにされねばならない。この現実に悔い改めない人間の罪深さを深く思わされます。

しかし、この審きを取り次ぐエレミヤの悲しみ、涙の背後のさらに奥深いところで、民の悔い改めのために流す神の涙、嘆きがあることをわたしたちは忘れてはならないのです。神が愛子キリストを与え、背く者の罪を背負わせ、日盛りのときを暗黒に変えて十字架上で贖いをされたのは、愚かな罪深きものの現実に涙を持って救い出そうとする深い神の愛があることを忘れてはならないのです。エレミヤの涙の背後には神の涙があります。

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