申命記講解

6.申命記6章4節-25節『唯一の主』

「聞け、イスラエルよ」(シェマー・イスラエル)で始まるイスラエルのへの呼びかけの言葉は、申命記にある定式表現です(5:1.9:1,20:3,27:9)。この呼びかけは、元来、諸部族の礼拝祭儀の行われる場で、会衆に向かってなされたものであると考えられています。

4節の「われらの神、主は唯一の主である」は、構文法の点での翻訳の可能性として、フォン・ラートは次のような主張をしています。「ヤハウエは我々の神、ただヤハウエのみが」、と訳すこともできる。あるいは「我々の神ヤハウエは、ひとりのヤハウエである」と訳す事も可能である(他の可能性も考えられる)。前者の「ヤハウエは我々の神、ただヤハウエののみが」という翻訳を取る場合、カナンのバアル祭儀の誘惑に対して、ヤハウエのみが神である、と告白することが問題になっている。後者の「我々の神ヤハウエは、ひとりのヤハウエである」という翻訳を取る場合は、散在しているヤハウエ伝承や、複数の場所で行われているヤハウエ祭儀に対し、単一なるヤハウエの存在を告白することが、問題となっている。いずれの解釈も申命記を引き合いに出して主張することができる、と。いずれの解釈を取るにも、イスラエルは、唯一真の神ヤハウエを告白することにおいて、一つの民として、場所の限定も受けず、「ヤハウエのがわたしたちの礼拝すべき神である」ことを確認する意味があります。第一の点は、バアル宗教など多神の中で、それらの神と混淆させることも拒否し、唯一ヤハウエがわれらの神であると告白し、礼拝することにおいて、我らはヤハウエの民、信仰共同体として生きる、という信仰告白の意味を持ちます。第二の点は、礼拝すべき場所が異なっても、同じ神、単一、唯一の神ヤハウエを礼拝することにおいて、イスラエルの諸部族はヤハウエの所有に属する一つの民とされているという信仰告白的な意味をもっています。前者の考えは、日本のような多神的世界に生きる者にとって、世界はヤハウエによって支配され、ヤハウエのみが真の神、唯一の神であると告白する意味をもっています。後者の考えは、場所的に異なること、地域の様々な特性の限界の中で、それぞれ別々に礼拝を守っていても、同じ主、唯一の真の神、ヤハウエの民として礼拝を守ることによって、その摂理的な支配と導きを共に受けているという、一つの共同体としての一致の根拠を得ているという告白的な意味を持ちます。新約時代を生きるわたしたちにとって、いずれの立場の告白的意味理解も、教会の信仰の一致と、異教的環境の中での信仰の戦いを考える上で重要です。

唯一の主告白に続く「あなたの神、主を愛しなさい」という要求は、バアル宗教の神を礼拝する罪を犯したイスラエルに、ホセアという預言者が立てられたことの意味から理解することが大切です。ホセアは、淫行の女ゴメルを妻として迎え、淫行による子らを受け入れよ(ホセア1:2)という主の命令に従って、その結婚生活により苦悩の日々を経験します。その夫婦生活は、夫である神ヤハウエが、異教のバアルの神を礼拝する妻イスラエルの背教的現実に嘆き苦しみつつ、それでもイスラエルを愛し赦し、真の夫婦関係の戻そうとするヤハウエの熱情の愛をホセア書は語っていますが、この申命記においては、そのような愛の思想の痕跡はなく、ヤハウエに対するイスラエルの関係は、子が親に対する関係として理解されています(8:5,14:1をホセア11:1―2と参照)。この親密な愛関係の中でイスラエルは、ヤハウエの共同体として神礼拝を考え、現実の生を生きること、その生活を信仰告白としてなすことが求められているのであります。
続く6節―9節は、「語り聞かせなさい」というこれらの要求は、唯一なる神ヤハウエとイスラエルとの間の排他的な関係をうたったものでありますから、ここで示されている《愛》は、契約を忠実に守る姿勢を示し、人の偽りのない真実の心の在り方を問う4,5節との関連で理解する必要があります。十戒が対神関係だけでなく対人関係を含む愛に生きる主の民としての信仰の在り方を問題にしていることを考えれば、対人関係の基本にあるのは親子関係です。それは、「あなたの父母を敬え」という、第5戒から考えられるべきものであり、この場合、父親のなすべきことは、神の愛に生きる人の道を自分の子に、余すことなく、「語り聞かせなさい」という主の命令に従うことであります。父親(母親のみの場合は母親)は「主が命じるこれらの言葉を心に留め」、一度だけでなく、「子供たちに繰り返し教えよ」と命じられています。その徹底ぶりは、「座っているときも道を歩くときも」、「寝ているときも起きているときも」、四六時中という徹底ぶりです。現実には寝ているときに、主の教えを語ることはできませんが、それほどの熱意をもって、主の道を教えることの大切さが教えられています。

「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけなさい」と命じられています(8節)。今日のキリスト教会の現状を考えると、世俗化する社会の状況に合わせて、クリスチャンホームの信仰は、世俗化している現状は否めません。しかし、神との契約における親子関係は、時代に左右されてはならず、時代を超えた普遍的な教えです。この点で、まず親の信仰が問われます。

「あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(9節)という言葉は、更に強い信仰の在り方を教えるものです。イスラエルが生きた古代近東の世界では、「戸口の柱」には、家の守り神を置く場所が設けられていました(出エジプト21:6)。《門》は、家全体の生活圏を代表するものでありました。主の教えを家の門に書き記すということは、生活の隅々に至るまで、律法を覚える精神を植え付け、生活全体から異教習慣を撤廃させる意図があります。今日のキリスト教会の宣教を考えるならば、このような徹底したクリスチャンホームの形成は、そこにキリスに結ばれた、主の言葉を第一として生きる主の民があるという証になります。宣教は、自分の家の門に、主の言葉を掲げ、主の言葉に生きるものであるということを証するところから始まるものでることを深く覚えさせられます。その様な信仰は、御言葉をいつも信仰の家族として共に読み、共に聞くことから生まれるもので、そういう生活の積み重ねがないと、家の門にキリスト者であることを証する生き方もできないものです。これも御言葉によって神の愛を深く知ったものが、はじめてできるものであることも覚える必要があります。

10節-15節は、説教です。この説教は、神の約束の成就の時が今や差し迫っているという状況から出発しています。ここで危惧されているのは、急に豊かな生活を享受するようになった結果、イスラエルが誘惑に陥り、主ヤハウエを忘れるかもしれないという懸念です。この説教は、ヤハウエを礼拝する祭儀にしっかりとどまるよう警告し、ヤハウエが従わない者を罰せずにはおかない、熱愛する(妬む)神であると厳しく警告しています。これらの言葉は、王国時代、バビロン捕囚の時代のバアルをはじめ、偶像の神を崇拝した罪と関係して述べられています。イスラエルの信仰において、土地は神ヤハウエのもので、カナンの土地はヤハウエから与えられたものという考えがありますが、その土地取得及び農耕祭儀におけるイスラエルのバアル宗教化した罪を踏まえ、ヤハウエの主権・支配の信仰に立ち、再びイスラエルが同じような罪、異教化への道を歩んではならない、という説教になっています。

16節-25節の説教は、後の時代になって予想される問い、への答えとしてなされています。モーセの時代から遥か後の時代には、世代交代を重ねる中で、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」という問いは、まさしく、マッサにおける出来事を含め、律法と出エジプトの関連を知らない世代が生まれているという危機的状況を反映しています。これは、恐らく捕囚期における状況を反映していると考えられます。その時代のイスラエルの民の父と子に、21節-24節に記される救済史を、繰り返し語る必要がありました。神が歴史を支配し、民を救いへと導くのは律法(御言葉)を通してです。選びの民イスラエルを導く神の律法は、このように、その恵みの交わりを、また現実的な救いを生み出してきた救済史的現実の出来事であります。今もその同じ神の導きが同じように表されていることを認識させるために、新しい異なる時代に生きるこの民に語ることが必要であると認識する説教者の言葉がここに記されているのであります。そこに説教を繰り返し聴き、神の言葉を繰り返し聴くことの大切さが教えられています。新約時代を生きる私たちにとっては、主イエスによる十字架、復活、昇天の出来事を直接目撃したわけではありません。しかし、その出来事を目撃し証言する責任を担わされた使徒たちが、語り伝え、書き記してきたイエス・キリストの福音の言葉を、後の時代の説教者は、同時代を生きる聴衆に、今も同じ救いが継続し行われていることを伝える業に従事しているのです。イエスキリストの救いは、それらの説教の行為を通して、はじめてわたしのためになされた救いとして、信じ、喜び、信仰をもって告白することができるようになります。

25節の最後にある「我々は報いを受ける」という新共同訳の翻訳は、応報思想を思わせる訳でよくあません。「われわれの義となるであろう」(協会訳、新改訳)という訳の方が優れている、と鈴木佳秀は主張しています。そして、義とは、神を恐れることにより「生きるように」なることを言う、との指摘も行っています。
主への真の信仰は、このように伝える者がいて、初めて健全な姿で保たれるものであることを覚えることが大切です(申命記30章11節-14節)。

旧約聖書講解