イザヤ書講解

62.イザヤ書56章9節-57章13節『神を恐れぬ者』

イザヤ書56章9節-57章13節には、捕囚前になされた三つの審判預言のことばが含まれています。つまりこの部分も、第三イザヤによって告げられた使信ではありません。しかし、57章14-19節は、第三イザヤの中心的な使信が記されていますので、これらの預言は、それと結びつけて「神を恐れぬ者」を告訴し有罪とするために後代の編集者がこの位置に置いたと考えられます。捕囚後のイスラエル共同体において、神を畏れる敬虔な者と、神を畏れぬ涜神者との対立が起こったとき、捕囚前の時代から伝承されていたこれら預言者の審判預言がこれら涜神者の罪を告発する言葉として更新され、用いられたと考えられます。このまとまりは、次の三つの段落に分かれています。

第一段落の56章9-12節は、イスラエルの指導者の倫理的堕落を指摘しています。

第二段落の57章1-2節は、彼らによって殺された義人たちについて述べています。

第三段落の57章3-13節は、義人の死に心をかけなかったイスラエルの民全体の宗教的退廃を描写した後、彼らへの審きを告げています。

各段落で述べられていることを以下に概略します。

56章9-12節で述べられている「見張り」(10節)とは、民の宗教的な指導者のことを指しています。エレミヤ書6章17節によれば、見張りは主によって立てられた者として、主の共同体を破壊し攻撃する敵から守るために、その攻撃が加えられたとき、「角笛」を響かせて、警告する責任を担わされた存在でありました。エゼキエル書3章17節によれば、「イスラエルの家の見張り」として立てられ、主の口から言葉を聞き、主に代わっ主の民に「警告」を与えるために立てられた存在です。

そして「羊飼い」(11節)とは、ここでは政治的指導者のことを指し、エゼキエル書34章1-10節によれば、「イスラエルの牧者」として、主の御旨を告げ、主の「群れを養うべき」つとめを与えられていたのに、「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」(エゼキエル書34章3-6節)という厳しい主の怒りの言葉が記され、「群れを養わず、自分自身を養っている」だけの彼らに、「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」(同10節)という主の審きが告げられています。

イザヤ書56章9-12節では、「見張り」(宗教的指導者)は、見るべき者としての「見るべき力がなく」、知るべき知識を持たず、「何も知らない」者として、それゆえ語るべき言葉を待たない「口を閉ざされた犬」のように、危険な敵の来るのを告げる、「ほえる」役割を放棄し、伏してうたた寝を愛する怠慢者に過ぎないという厳しい非難の言葉が記されています。戦時下の日本のキリスト教会の指導者は、こうした「見張り」の役割を担えなかっただけでなく、「愛国歌」といわれる歌を教会の礼拝の中に取り入れる誤りを犯させた偽りの「ほえる」役割を担った罪を犯しました。その罪を非難することはたやすいですが、第三イザヤにこれらの罪が、彼らの時代において再解釈されている事実を現代の文脈においてみるとき、私たちも今同じ誤りに陥っていないか、という自己吟味の問題として聞く大きな課題と挑戦を受けていると言えるでしょう。

11-12節は、自分の好む道を追い求め、自己の利をむさぼり、強い酒を飲み自己陶酔する「羊飼い」の姿を描写しています。預言者アモスは、富める女たちを「バシャンの雌牛」と呼び、彼女たちは「弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げ」、夫に向かって、「酒を持ってきなさい。一緒に飲もう」という退廃した生活に浸っているが、お前たちは「肉鉤で引き上げ」られ、次々に、「城壁の破れから引き出され、ヘルモンの方へ投げ出される」(アモス書4章1-3節)という主の審きを告げています。ここでは、野の獣によってもたらせる主の審きの日の到来が告げられています(9節)。

57章1-2節は、悪人が栄え、義人が滅びる現実への嘆きが歌われる、詩編12篇2節とミカ書7章2節と同じ主題を扱っています。

3節以下は、この嘆きに、預言者の告訴の言葉が続きます。捕囚前の預言者の審きの言葉をここに集成し、帰還後に始まった神を畏れぬ者と神に従う正しい人々と二つの集団に分離していくことに対し、捕囚前の預言者の審きの言葉を新しい状況と関連させて解釈し、その審きを受け入れる理由としてこれらの預言が用いられています。

2節の言葉は、なぜ平和が訪れるのかその説明がないので理解が難しいところです。義人の受難は、第四の僕の歌(52章13節―53章12節)を想起させるので、義人の死後訪れる平和というものが考えられますが、むしろここでは、13節後半の神の審きを通して与えらるものとして語られていると考えられます。

57章3-13節は、神を畏れぬ者の罪として、捕囚前の預言者の偶像崇拝に対する告訴を取り上げられています。3-6節と7-13節は別の審判預言に属します。

魔術と姦淫はどちらも比喩的に用いられ、偶像崇拝を指すものとして語られ、4節において、それは主に対する背きの罪として断罪されています。口を開く、舌を出すという身振りは、通常は人間に対して用いられますが、ここではイザヤ書37章23節と同じように、意識的に際立った侮辱のしぐさとして神に対して用いられています。ペシァア(涜神)は、捕囚前預言者においては、もっぱら神への冒涜を意味していました(エレミヤ2:8)。5節は、幼児犠牲による高きところでの礼拝を示しています。6節においてようやくこの段落での審判の告知がなされますが、それがどのような形でなされるのかはここでは定かではありません。

7-13節では、イスラエルの偶像崇拝の罪を告発しています。ここでは明らかにカナンの豊穣祭儀の問題が取り上げられています。それはただ高き所での礼拝における偶像崇拝を、徹底して姦通または姦淫として述べ、神殿売春との結びつきが告訴されています。

11節において、イスラエルに向けて語る預言者の言葉が記されていますが、預言者は、イスラエルに向けて、その行為の中で際立った対象を示しています。 エレミヤは、外国の神々を、水を供給しない壊れた水溜にたとえて語りました(エレミヤ書2章13節)。それと同じようにここでは、お前たちがそのときおびえ、恐れたのは一体誰なのか、と預言者は問い、わたしを心に留めず、わたしを畏れないのか、という激しい主の抗う言葉を記しています。

12-13節において、神の介入による審判が短く語られています。助けを求めても答えることのない偶像の神の無能と、一息で吹き去る偶像の神の無力とが語られ、最後に主を信頼するものに与えられる約束が語られています。この約束の言葉は、元来イスラエル全体への救いを告げている第二イザヤ的表現を用いた第三イザヤの救済預言(57章14-19節)につなぐ意味をもっています。それはイスラエル内部の神を畏れる者と神を畏れない者の対立が生じた時代背景を考え、高きにある聖なる超越者である神が打ち砕かれた低い魂とともにあるという、第三イザヤの一つの到達点への導入となっています。

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