マラキ書講解

8.マラキ書3章19-24節『主の日に現わされる救い』

神に逆らう不敬虔な者らの繁栄を嘆き、「神に仕えることは空しい」と神に抗議していた者らの、心痛める不信仰と思えるような呟きに、「主は耳を傾けて聞かれ」、「その日」表される転換が17-18節において告げられました。19-21節では、神が「備えているその日」(「主の日」)における、「悪を行なう者」と「主を畏れ敬う者」の「区別を見る」(18節)出来事が明らかにされています。

「高慢な者、悪を行なう者」には、「その日」は、「炉のように燃える日」として到来するといわれています。3章1-4節では、火は精練のために用いられ、「レビの子らを清め」、正しい神礼拝へと導く「使者」の役割、働きとして語られていました。しかし、ここでは、その火はよく燃える「わら」を焼き尽くすように、「根も枝も残さない」完全に焼き尽くす火として語られています。主に逆らう高慢な悪しき者に下される徹底した審きが、このように語られています。現在の彼らの繁栄を見るのではなく、神に逆らう人の「根も葉も残さない」最後と、「主の名を畏れ敬うあなたたち」の最後を、「区別して見る」べきことが、強烈な印象で語られています。

20節には、「わが名を畏れ敬う者」たちに示される神の計らいが語られています。「義の太陽」は、オリエントで礼拝された太陽神のイメージが借用されています。しかし、ヤーウェを太陽神と置き換えようというのではありません。そのイメージされている救いと力は、ヤーウェにこそふさわしいと考える、預言者の一つの表現手段として、読まなければなりません。「義」は「救い、勝利」の意味です。オリエントで礼拝された太陽神は、光線を翼のように広げた、円盤によって表されました。翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与える、と考えられていました。「その翼には癒す力がある」という言葉は、そのイメージを借用した表現です。闇のような時代にあって、苦しむ主の名を畏れ敬う者たちのその苦しみも、ヤーウェの日には、ヤーウェが「義の太陽」となって、その強い光で「いやし」喜びと希望を回復する、ということが歌われています。

また、「その日」は、高慢で悪事を行なう者に苦しめられ、じっと耐え忍んでいた正しい者は、牛舎に閉じ込められていた子牛が、日の光り輝く牧草に連れていかれたときに、小躍りするような解放の喜びに浸るように、解放の喜びを味わう時でもあるといわれています。

21節には、17節において用いられた「わたしが備えている日」という言葉が繰り返し用いられています。この語によって、17-21節が一つに囲い込まれています。17節では、主を畏れ敬う民は、主の憐れみを受けて「宝となる」ことが言われていましたが、21節では、主に逆らう者に対する、主の勝利が語られています。この勝利は、「主を畏れ敬う者」が、自らの敬虔さによって勝ち取った勝利ではありません。神がもたらす勝利として語られていることに、注目しなければなりません。主が備えられるその日の勝利は、主の恩恵の力によってもたらされる逆転であるからです。

それは、新約の光に照らすと「復活の日」の勝利であります。無力に踏みつけられた、主に従う者の十字架の苦しみは、主の日に完全に現れる復活の力により逆転し、喜びと希望に変えられます。そして、自分たちを苦しめる者たちは、主キリストの「足の下に置」(Ⅰコリント15:25)かれます。主を信じる者が「区別」してみなければならないのは、この主の許にある、「主の日」に実現する逆転の事実であります。

22-24節は、21節までと直接的な結びつきは何もありません。これらの言葉は、本来のマラキの預言には属さない言葉が加えられていると、多くの注解者は見ています。ヘレニズム時代における、編集者による付加であると見なされ、申命記的な歴史家の観点に立つ付加であるといわれています。

しかし、マラキの預言にこれらの言葉が結び付けられ、その結語とされていることに、大きな意義を認めることができます。新約への橋渡しをする、重要な言葉があるからです。

「わが僕モーセの教えを思い起こせ」という呼びかけの言葉は、単純に過去の出来事を思い起こせと語っているのでありません。その出来事が教える行動に移ることを含んでいます。「モーセの教え」とは、トーラー(モーセ五書)に記された出来事をも示しています。編集者が、これらの言葉を21節の後に置いたのは、「主の日」の到来を待ち望む信仰のあり方を示すためです。かつて主がなされた救いの御業を思い起こし、来るべき主の日になされる救いの確かさを確信すること、その教えの御言葉に堅く立つ信仰こそが今求められている、というメッセージを伝えるためでありました。

23節の「見よ、わたしは…遣わす」は、3章1節の「見よ、わたしは使者を送る」をふまえた表現です。「遣わす」も「送る」も、原文では同じ言葉が用いられています。3章1節で名が挙げられなかった使者は、ここでは「預言者エリヤ」とされています。列王記下2章に預言者エリヤの最後が記録されていますが、エリヤは、火の戦車に乗って嵐の中を天に昇っていた、と記されています。ユダヤ教においてエリヤは、天に昇った人物であるゆえ、神が遣わすにもっともふさわしい人物であると考えられ、モーセと並ぶ重要な位置を占めています。新約聖書は、バプテスマのヨハネの活動の中に、エリヤの姿を見ています(マタイ11:14、17:10-13、マルコ6:15、15:35、ルカ1:17)。

その使者は、「わが前に道を備える」(3:1)働きをする者であり、エリヤのように、神から直接召し出され、神の言葉を語り、「主の日」の到来の先触れとなって、その備えをさせる役割を担うものであることが、告げられています。彼のつとめは、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」働きをすることであります。

この場合、「父」は、神ではなく、普通の家庭の父のことが考えられていると、注解者は説明しています。新しいヘレニズム時代の社会の反映か、家庭内の世代の分裂と緊張は、親子の断絶をもたらし、家庭内の一致は、大切な終末の時の教えとして、ユダヤ社会で重要な位置を占めていたといわれています。再来するエリヤの役割は、父と子に和解をもたらすことであると、考えられています。

24節は、父と子の間で和解が成立していなければ、地は破滅に見舞われることを語っている、と見る注解者の意見があります。これはこれで、今日の日本の父子関係を見る上で多くのことが教えられますが、この旧約聖書の最後の言葉をまた違った角度からスポットを当てて読むことは、もっと重要であります。これを、キリスト教会がユダヤ教の伝統に立ちつつ、それを越えてイエス・キリストへ橋渡しするバプテスマのヨハネの役割、として理解している新約聖書の立場から読む時、まさにヨハネが成そうとしたことの成就は、彼が指し示した主イエスまで待たねばならない、ということが語られています。

「父の心を子に、子の心を父に」という和解は、キリストの十字架においてのみ実現するからです。マラキ書3章24節は、1章2節の「わたしはあなたたちを愛してきた」という言葉に戻って、神によってのみ実現する、救いの日の到来を告げて終わっています。そしてそれは、イエス・キリストの日においてのみ実現する恵みとしてもたらされる、イエス・キリストにおける、神の愛を語って終わっています。

旧約聖書講解