詩編講解

41.詩編81篇『救いの御心』

この詩篇は、新年における契約更新祭で、契約の民に信仰の決断を求める神を指し示しています。ここに示されているのは、救いの御心をあらわされる神であります。

2-6節前半は、契約共同体が歓声と歌声を楽の音に合わせて神を讃美し、一大祝典を挙行するように促しています。この祝祭は、4節後半の「新月、満月」という言葉から、実に2週間以上にも及んだことがわかります。この祝いは、エジプトからの解放に始まった救いの歴史を証する目的で、神の聖なる律法秩序を神ご自身が民のために定められたことを明らかにしているのであります。

救いの歴史の意味も、その歴史の伝承を担う礼拝の意味も、神が証しされることによって満たされるのであります。救いのことが気になって、純粋に祭りの喜びを心から表すことのできない民の心に、いまや神の言葉が預言者や祭司の口を通して鳴り響いていくのであります。それは、「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。」(6節)という言葉において表されています。その言葉には、民を圧迫していた問題に対する答えが含まれていました。

7-8節のヘブル語原文における時称の変化は、イスラエルの民が過去の歴史に対して距離を置かず、自ら歴史に与る者とされていることを、この祭儀の中で再び体験する事象の中に取り込まれていることを明らかにしています。

契約祭儀に参加する者は、聖所における神の現臨の前で、時間・空間の制限が取り去られ、救いを現実的に肌で感ずるものとされているのであります。その際に、神の言葉は、会衆にこの祭儀の事象の大いなる瞬間に対して、心構えをさせる重要な役割を担っているのであります。それは、神がいかなるお方であり、いかなることを民に望まれているか、その本質と意思を重ねて示すことによってなされているのであります。祭儀の極致として、会衆に迫るのはまさにこの告知にほかなりません。

エジプトの苦役からの解放は、祭儀に参加する会衆にとっては、神に聞き届けられることの保証でありますが、今、神は、かつてなされたように雲に乗って現れ、メリバの水辺におけるように、民を試される方として示されているのであります。

イスラエルの民は、主の導きによってエジプトを脱出し、海を渡り、荒れ野を旅していましたが、レフィディムに宿営した時、民はモーセに向かって、「我々に飲み水を与えよ」「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(出エジプト記17:2、3)と不平を言うだけでなく、モーセを石で打ち殺そうとした、といわれています。この激しい民の不平、殺気に恐れ悩まされたモーセは、主に叫んでこの民の取り扱いについて尋ねました。主は、ナイル川の水を打った杖をもって、ホレブの岩の上に立つ主の前で、モーセにその岩を打てと命じられました。そうすればその岩から水が出て、民が飲むことができる、と約束されました。モーセは主の命じられた通り実行し、その危機を免れましたが、モーセは「その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけた」といわれています。それは、イスラエルの人々が「果たして、主は我々の間にいるのかどうか」と言って、モーセと主を試したからである、と出エジプト記17章6—7節に記されています。

メリバの出来事は、イスラエルの民の不信仰にもかかわらず、主の臨在を明らかにし、彼らの願いどおり水を与えられた事件、イスラエルの救いを表わすものとして、歴史の中で記憶されてきたのであります。主はホレブの岩の上に臨在され、神の人モーセはその岩を打ち、そこから水がほとばしりでて、民の渇きが癒されたというこの事件は、神の臨在を疑い、その信仰を失った民にあらわされた救いの出来事でありました。「ホレブの岩」は、主の御言葉、律法が授けられた場所であります。

この場所に関するメリバの出来事との重ね合わせは、危機の中で、「果たして、主は我々の間にいるのか」という疑いを、恵みによって取り去り、その水は単にのどの渇きを癒すだけでなく、魂の渇きを癒す御言葉の恵みをあらわしているのであります。
主は、今、この祭儀の中で、民に律法と主の定めとに対して、民に決断を迫っているのであります。主は、今、この祭りを契約更新祭として、主の契約を忠実に守るよう民に警告しているのであります。

契約更新において一番重要なことは、神に対する真実な信仰を示すことであります。それゆえ、「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。」(10節)、と主はご自分と並んで他の神々を並べ、礼拝することを最も大きな罪として厳しく禁じておられるのであります。

神と民との契約関係においては、神の救いの確約は、信仰による真実と従順なしには行い得ないものであることを示されているのであります。それゆえ、神はその意思を明らかにした上で、民に向かって公然と11節のようにお語りになられます。

とくに、最後の「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」という言葉は注目すべき言葉であります。民が神の言葉に満たされるなら、神に対して正しい信仰を示し、その告白を行うことができるようになります。そうであるなら、結局のところ、会衆の神に対する告白もまた、神の言葉の啓示の賜物にほかなりません。

しかし12、13節において、民が神の声に聞かず、この民が罪の道を歩んだ不幸な歴史が回顧されています。

神の御心は民が救われることにあります。しかし、その救いの歴史は、しばしば不幸な形で終わることが実に多いのです。それは、神の責任ではなく、民の神の言葉に対する軽率さと、不従順の結果であると神はいわれるのであります。

その結果、歴史は本来神の救いの歴史として叙述されるべきであったのに、神の審きの歴史となってしまったと語られているのであります。神は民が思うままに歩ませられました。しかし、その結果、民は罪の支払う報酬として、神の審きに服さねばならぬ身となりました。それは決して神の御心ではなかったのであります。神の御心は民が救いに与るものとなることであったのに、民は自由な意思を与えられて、自らの意思で罪を犯したのであります。

しかし、14-15節は、救いの歴史が審きの歴史となって現れたことが、神が民を捨てられた徴であるというべきでないことを示しているのであります。確かに神は背信の民を裁かれます。しかし神の審きは、その民をご自分のところに連れ戻すためのものであり、神の道に導くために差し出された恵みの手でもあるのであります。

神はご自分の民をご自分の下に呼び戻すことを止められません。神はその声で、民を悔い改めに導き、救いへと至らせようとされるのであります。それはまさに神の愛にほかなりません。苦難の原因が、神の言葉への背反にあるなら、救いへの希望もまた、神の言葉の中にあるのであります。神の意志は、御言葉に立ち帰り、その救いに与る者となることであります。この詩篇から、その信仰を学ぶことが大切です。
神の御心は、常に民の救いにあります。

主は民を最良の小麦で養ってくださる。
「わたしは岩から蜜を滴らせて
あなたを飽かせるであろう。」(17節)

このように神は、民を最良の小麦で養い、岩なる神から出る御言葉の蜜で飽くほどに、その甘い味を味わう者となるよう欲しておられるのであります。この恵み、この救いに与るものとなるかどうかは、民の信仰にかかっています。礼拝の中で語られる御言葉は、いつも信仰の決断をわたしたちに迫るものであります。神は、わたしたちを救おうと、その恵みに与る者となるように、決断を迫られるのであります。

旧約聖書講解