詩編講解

7.詩篇第7篇『神への訴え』

この詩篇も個人の嘆きの歌に属します。この詩篇の詩人は、彼の命をねらう敵に恐れを抱き、神のもとに避難しています。彼は自分の身の潔白を証しすることによって、自分の無実を神に誓っております。そうすることによって、彼は神の義の審きを祈り求めています。

イスラエルの信仰において、祭儀の場は、敵にいわれなき迫害を受けている者が神の判決を祈り求める場所と理解されていました。列王記上8:31-32における、ソロモンの神殿奉献の祈りの中に、「もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください」という言葉が見出されます。

それゆえ、不当な告発を受けた者は、神殿において神の判決を祈り求めます。神の判決によって、彼自身には、義が与えられ、彼を謗る敵に対しては、それに相応しい罰が与えられるようにと訴えるのです。この詩篇の作者は、神の義を待ち望みつつ、神に対する短い感謝の誓いによってこの詩を締めくくっています。

作者は、2、3節において、神への嘆願の祈りによって、神の庇護のもとに逃れてゆきます。神以外に彼が救いを期待できるものは他にないからです。彼の言葉は、胸に込み上げてくる激しい喘ぎのために震え、生命の不安をまざまざと表しております。

しかし、同時にこの祈りは、神の御手に守られているという信頼によって支えられています。神への信頼を失った魂には、祈りの言葉さえ出てきません。神への信頼こそ、祈りの力です。

3節において、敵は、獲物を引き裂く残忍な獅子に譬えられています。神なき人間は、そのような悪魔的・野獣的な破壊意思を持った人間の掌中に陥り、救いなきまま、その餌食にされてしまいます。この詩人は、この恐るべき事実を見つめ、神以外に誰もそこから救いえないことを告白し、神に訴えます。

4-6節において作者は無実を誓います。たしかに彼は、命を狙う残忍な敵に脅えています。けれども、彼がもっとも恐れるのは、彼の名誉を奪い、彼の心の拠り所を奪い去ろうとして、彼を中傷する敵の策略です。この策略に対して彼は無力です。彼の避け所は神だけです。

2節と4節において、作者は「わたしの神、主よ」と二度呼びかけています。彼は信頼するこの神に自分の無実を誓います。ヨブは、友人たちに誤解され、嫌疑をかけられたとき、身の潔白を誓い、自らを神の審きに委ねました。この詩人も、ヨブの場合と同じように、自らを神の審きに委ねています。彼には、もはや神の審きの場における判決のほかに、いかなる道も残されていません。

「もしわたしがこのようなことをしたのなら」という彼の無実の誓いは、当然のことながら敵の告訴に対してなされたものです。彼は、神の前にどのような罪も犯したことがない、といっているのでありません。彼はただ中傷されるような罪は犯していないという、自らの無実を誓っているのです。彼に向けられた中傷と非難が具体的に何を指すのか、4、5節のことばからはわかりません。いずれにせよ、彼はいわれなき迫害を受けていると感じています。もし敵が嫌疑をかけているような悪事を自分が犯しているのなら、それは自業自得だから言われるような迫害を受けても当然だと、作者は言います。

彼はそのようにして神の御前に自己の良心を明らかにします。そのように祈る祈り手の心に、いかなる力が芽生えるのでしょうか。

詩人は、潔白の誓いに続けて7-9節において、神の審きを要請します。この要請は、今こそ決定的な審きの時が来たという意識のうちに、神の現実を先取りする大胆な彼の信仰と、彼の良心を支える倫理的な力とが結合することによって、それが神への呼びかけとなって発っせられています。彼は、神が現れ、裁きの座についてくださるように呼びかけます。この審きにおいて問題なのは、あくまで究極的かつ根本的な神の判決です。詩人は、自分の一件が、そのような本質的な次元に属する問題であると確信しています。彼のこのような確信と態度は、旧約の契約祭儀に息づいている信仰から生まれてくるものです。

ここには、天の軍勢に囲まれて、全世界の王として高い御座につき、諸国民に審きを下す神をイメージして描かれています。このような神のイメージは、祭儀によって伝えられた旧約の伝承から来るものです。例えば、イザヤ書6章や詩篇18篇7節以下において、その表象が伝えられています。そこには、世界を超越する神の神聖さが、畏敬の念をもって証しされています。詩人は、このような表象を用いて神を語ります。それは、己の卑小な自我を出発点とするのではなく、あくまでも神を出発点としているということの証拠です。

この詩人の信仰の内には、大胆さと並んで、神への謙虚な畏れが生きています。彼の胸元には義を渇望する良心の叫びが衝き上げてきます。にもかかわらず彼は、この畏怖の念によって、神が定められた人間の限界を踏み越えてしまうことから守られています。彼は、自分の義を求める戦いが、そのまま同時に、「諸国民」に妥当する普遍的な義をめぐる戦いであることを、強く自覚しています。

10-12節において、作者の確信が述べられます。
神の義とは、悪しき者、すなわち神なき者の悪が滅ぼされ、神に従う者の正義がこの世で固く立てられることを意味します。彼は信仰によってこれを見極め、深く確信します。

人のはらわたまで調べる神には、真理が隠されたままで終わるということはありえません。詩人は、神の義についてのこのような認識を、祈願と信仰告白の形で表しています。

彼のうちで激していた感情は、神の真理と義の勝利を確信することによって鎮まります。詩人は、全人格を傾注して祈ることによって、この確信に到達しました。彼の神への信頼によって始められた祈りは、今や神へのまったき信頼の中で委ねきり、それが力強い潮流となってゆったりと彼の心の中を流れています。

神の義は、心の真っ直ぐな人を救い、神に逆らう者を滅ぼし、正しく裁く。彼はこの確信に立って、13-17節において、神なき者の破局を見つめます。詩人がここで示そうとしていることは、まさに神の義の神秘的な働きによって、罪そのものが審きの場にされていくということです。

そして、この詩人は、最後に、神の審きを確信し待ち望みつつ、神への感謝と賛美の誉め歌をもって、この詩を結びます。彼がこのように結ぶことが出来るのは、彼の訴え事に関して、神ご自身が真理と義の弁護人となり、保護者となってくださったということを確信しているからです。この確信が彼に平安と喜びを与え、自分が経験した苦難もまた、神の栄光のためのものであるという認識へと導きました。

神の真理と義は、このようにして信仰者の体験を通して、全世界に啓示されます。彼は信仰の目でしかとその事実を知り、確信しました。だから彼は、神への感謝と賛美のことばによって、祈りを結ぶことが出来ました。神への信頼の中に生きる者は、このように、いわれなき迫害の中であっても、神に訴え、神の義の審きを求め、平安へと導かれ、神への感謝と賛美のことばによって、祈りを結ぶことができます。そのことを知ることは、私たちの信仰の歩みにおいて大きな喜びです。神は、挫けやすい私たちの心をいつも励まし、神への信頼の中で生きる勇気と祈りへと促してくださるからです。

旧約聖書講解