詩編講解

51.詩編105篇『御言葉を心に留め』

この詩編105篇の1-15節は、即位祭の詩であると、96編と106編47-48節とともに、歴代誌上16章8-22節の中で祝祭の賛美の歌として引用されています。歴代誌上のこの箇所は、ダビデが契約の箱をシオンに迎え入れる物語と結びつけられています。この事実は、この詩がもともと主との契約の祝祭において用いられていた可能性を示しています。そして、1-6節の導入部は、この詩が契約共同体の祭儀における賛美の歌であることを示しています。この詩で呼びかけられているのは、契約伝承の担い手である「アブラハムの子孫」であり、「ヤコブの子ら」であり、「主に選ばれた人々」であります。4節の「御顔を求めよ」は、聖所への巡礼を表す述語であります。聖所における契約祭儀において神と民との契約締結が厳粛に更新されるのであります。

1~6節は、導入の部分であります。
「主に感謝をささげて御名を呼べ」「主に向かって歌い」と、祈りと神讃美の歌をもって祝典に参加するようにとの呼びかけが契約共同体になされているのであります。この契約共同体は単にアブラハムの子孫であるという血縁的なつながりによるのではなく、父祖たちに与えられた祝福の約束の担い手であるという信仰をもって聖所に集まることが求められているのであります。彼らは年毎の契約更新祭において、歌と竪琴をもって、告白と祈りを持って、また神のくすしき救いの御業と審きとを祭儀において宣べ伝えることをとおして、ご自分の民に対して神の臨在に触れさせるのであります。このように、この詩篇は、旧約聖書の契約祭儀の本質を明らかにしているのでありあります。

そして、7~11節において、父祖たちと結ばれた契約が回顧されています。神はアブラハム、イサクなどの父祖たちと、とこしえの契約を結び、彼らに嗣業として継がせることを約束されました。この契約法と秩序はあらゆる時代と場所において妥当するものであります。それは、主の審きが全世界にわたって行われるためであります。この契約の内容を主なる神への会衆の告白として、ここで手短に歌われているのであります。

12~41節は、父祖たちに与えられた約束がいかにして実現していったかが述べられているのであります。

その叙述において、いかにして主の民がその歴史を神の救いの歴史として理解し、神のくすしき救いの導きとして理解していたか、そして、それを神の生ける臨在として繰り返し祭儀のなかで体験させることを繰り返すことによって、祭儀が自分とどう関連させられていったかが明らかにされるようになるのであります。ほとんどの節において、主(ヤハウエ)が出来事の主語であります。イスラエルの信仰において、歴史はまさに主の「真実と恵み」の証明の場なのであります。

12~15節において、父祖たちの放浪時代が回顧されています。主の救済の業は最も小さなところから始められ、父祖たちが一見無目的にあちらこちらと放浪するなかで神の約束は危機にさらされました。しかし、神はその危機に抗して自らの約束を実現されたというのであります。

16~23節において、ヨセフに表された神の恵みが回顧されます。ここでも、神はあらゆる人間的考えと期待に反して、様々な危機を与える中で、ご自身の中にあるその目的を実現されるお方であることが明らかにされているのであります。

24~38節では、出エジプトの物語が詳しく述べられ、ここでも神の多くの奇跡的な救済の業が示されたこと、歴史のなかで表される神の臨在と生ける力がそれぞれの時代においてふさわしく示されたことが明らかにされているのであります。

39~41節は荒野での放浪の出来事が述べられていますが、その放浪中の奇跡については短く言及されるだけであります。しかし、雲の柱を広げて覆いとする奇跡は、聖なる契約の箱の上に臨在される神を礼拝者に想起させ、火の柱を照らす奇跡は、昼だけでなく夜も民を導く神の救いの確かさを想起させているのであります。マナとうずらの奇跡による養い、泉の奇跡は神の慈しみの御手の確かさを示しているのであります。

そして、42~45節において、神が決して契約の約束を忘れることなく成就されることがはっきりともう一度述べられているのであります。

「主は聖なる御言葉を御心に留め/言葉を常に念頭におかれ、歴史を支配しておられることを示しているのであります。主の約束はご自身を偽ることのできない方である故に、決して失われることはありません。その効力はいつまでも存続します。イスラエルの民はかつて出エジプトの際にそれを歓呼して言明しました。その喜びは出エジプト記15章の歌のなかで歌われています。そして、ここでも同じように会衆は喜び歌うことによってそのことを証明しているのであります。

こうして神は要求する前にまず与える方であることが示されているのであります。その上で、45節において、「主の掟を守り/主の教えに従わなければならない」という呼びかけがなされているのであります。「主の掟を守り/主の教えに従わなければならない」理由、動機には、それに「主は聖なる御言葉を御心に留め」られるという恵みの事実が先行してあるという信仰を持ち続けることが大切であるということが明かにされているのであります。

107編20節では、「主は聖なる御言葉を御心に留め」られるだけではなく、「主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された」と歌われているのであります。主は、ご自身が約束した御言葉に御心を留めておられる、この事実こそが、わたしたちが「主の掟を守り/主の教えに従わなければならない」という決意を促し、それに聞き従う喜びを与えるのであります。

旧約聖書講解