エゼキエル書講解

2.エゼキエル書1章4-28節『エゼキエルの召命の日に見た幻』

エゼキエルの召命に関する記事は、1章1節から-3章15節にわたって記されています。エゼキエルの召命は、詳細な幻を持ってはじめられています。その幻は、預言者の派遣と激励、預言者の任務を示し、異郷の地、捕囚の地にも主が臨在されることを示しています。エゼキエルの召命の日に、神がこのような幻を見せられたのは、異郷の地、捕囚の地バビロンにおける彼の働きとイスラエルの信仰のあり方と深く関わっています。

エゼキエルは、ケバル川の河畔にて捕囚民の間に住んでいた時に、「天が開かれ、神の顕現に接した」(1章1節)といわれています。主の言葉に聞き従わない「反逆の家」(2章5節)となっていたイスラエルは、その罪に対する主の審判として、捕囚の民とされて、異郷の地バビロンにあります。この事実は、主に見放された民の悲惨さを示しています。しかし、その捕囚の民と共にいたエゼキエルに「天が開かれ、神の顕現に接する」体験を神が与えたということは、主の救いを意味しています。異郷の地バビロンにおけるヤハウエの顕現は、ヤハウエはエルサレム以外においても民と共にあることができ、救いを表すことができることを示す出来事であったからです。バビロンの地においても、ヤハウエが自ら「天を開き」、顕現される。救いはそのように神が道を開かれることによって訪れます。

そしてさらに、「主の言葉」と「主の御手」が、エゼキエルに臨んだといわれています(3節)。誰かの上に手を置いて意思を表示することは支配を意味します。主の救いの意志と支配は、異郷の地バビロンにおいても変らず表わされ示されるという希望が、これらの言葉において表わされています。

エゼキエルはその光景に圧倒されて、天を仰いで見ていたのでしょう。主の十字架と復活、昇天を経験した弟子たちは、主の派遣命令に従って、世界に向かって宣教する教会として立つことが求められました。そのためには、主の不在後も変わりなく、主の臨在と導きが与えられているという幻が与えられる必要がありました。昇天後、地上にその体がないのに、その臨在と導きを、以前と変わりなく表わすことができるのかという疑問に対して、主の臨在を確信させる、見える「しるし」を必要としていました。それは、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる」(使徒言行録2章2-3節)というしるしによって示されました。

捕囚の民の間にいたエゼキエルに、「嵐」と「四つの顔」と「四つの翼」を持ち、どこへでも自由に移動することのできる車という幻を通して示されました。「激しい風」も「嵐」も主の臨在を示す主の伝達手段です。雷雲は何かを隠しています。しかしそれは、激しい稲妻によって、同時に隠している力を表します。エジプトから解放されたイスラエルが荒野で見た「雲の柱」は、主の栄光(カボード)を表わしています。主の目に見える栄光が人間の眼前に顕現しますが、誰も神を見て生きえない故に、同時に、その栄光は覆い隠されています(出エジプト記33章20節)。雲の柱はその出来事を表象するしるしとしての意味を持っています。

主の顕現は、主ご自身の世界から表わされるので、本来、人間の言語と表現と異なる次元に属しています。それゆえ示される一切は、象徴として示されます。それゆえエゼキエルが見る幻はすべて、「・・・のようなもの」という表現においてしか表わしようがありません。わたしたちの信仰が「・・・のようなもの」ものであっては困りますが、栄光の主を直接見る者は生きることができないので、主の顕現は、ご自身の力と栄光の啓示であると同時に、ご自身を見えないように隠す働きを同時に持ちます。それゆえ、主の栄光を、人間は「・・・のようなもの」、また「・・・に似ている」という表象においてしか表わすことができません。

それは、「琥珀金のような輝きのもの」であり、その幻で示された四つの生き物の姿は、「人間のようなものであった」といわれています。

エゼキエルは、召命の日に、四つの顔、四つの翼を持つ四つの生き物の幻を見ています。それには車輪があり、向きを変えずに自由にどの方向にも移動でき、それが動く時、嵐のような風と、地震のような音、全能の神の御声のように聞こえる(24節)、といわれ、その動力は「霊」(20節)であるといわれます。その幻は、エルサレムの神殿においてもちいられる「台車」の働きをイメージして与えられています。

「彼はまた青銅で十台の台車を作った。各台車の長さは四アンマ、幅は四アンマ、高さは三アンマであった。その構造は次のとおりである。台車には枠の横木の間に鏡板があり、その横木の間の鏡板には獅子と牛とケルビムが描かれ、上の横木にもそうされていた。また獅子と牛の下には唐草模様が彫り込まれていた。一つの台車に四つの青銅の車輪が付いており、車軸も青銅であった。また四つの脚があり、支えがそれに付いていて、支えは唐草模様の傍らで洗盤の下に鋳込まれていた。その口は冠の内にあって、そこから一アンマ高く出ており、その口は円形で同様の作りで一アンマ半であった。口の上にも彫刻がなされていた。鏡板は四角であって丸くはなかった。鏡板の下には四つの車輪があり、車軸が台車に取り付けられていた。車輪の高さはそれぞれ一アンマ半であった。車輪は戦車の車輪と同じ作りで、車軸も縁も輻も轂もすべて鋳物であった。それぞれの台車の四隅にある支えは台車と一体になっていた。台車の頂に高さ半アンマの輪があって、台車の頂でその支柱と鏡板は一体となっていた。その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫り込まれた。彼はこのように同じ鋳型で、同じ寸法、同じ形に台車十台を作った。」(列王記上7章27-37節)

エルサレムの神殿における奉仕のために用いられた「台車」は、神の契約の箱を運び、御座を乗せるものとして用いられました。契約の箱のふたは贖いの座となっており、ケルビムが翼を広げて向かい合っています(出エジプト記37章9節)。モーセは、「掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた」(民数記7章89節)といわれています。それは、主の臨在があらわされ、主の言葉を聞くことができるのが、エルサレムの神殿であることをしめしています。それゆえ、台車は、それ自体が契約の箱が運ぶための什器としての意味を持っていました。

エゼキエルが見た幻の四つの生き物の顔が何を示すのか、注解者の間で意見が分かれていますが、一つの解釈として、人間(創造の冠)、ライオン(百獣の王)、雄牛(家畜の最上のもの)、鷲(鳥類の王者)で、生き物の最上のカテゴリーを表わすという見解があります。いずれにせよ、預言者が目撃したのは、ヤハウエの栄光であり、その玉座であります。それがケバル川のほとりに現れ、あのエルサレムの神殿で用いられた神の臨在を示す神の箱を運ぶ台車のような、しかもどこへでも自由に移動できる車の上に四つの顔をした生き物が乗せられてある、ということは、主の臨在と御言葉が、異郷の地においても同じように与えることを示すしるしとしての意味をもっていました。

「それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである」(エゼキエル書1章20節)といわれるような、霊の力でどこにでも自由に動いていくことができるものです。この幻は、ヤハウエはどこへでも自由に移動でき、バビロンにおいてさえ現在することを示しています。

それゆえ、この幻は、ヤハウエの現在を疑う捕囚民に、捕囚の地でもヤハウエの栄光を見ることができるし、ヤハウエの臨在のもとでその御声を聞き、ヤハウエを礼拝することができることを示すメッセージとしての意味を持っていました。

ヤハウエの生ける救いの働きと、臨在と、御言葉による導きの力は、異郷の地、捕囚の地バビロンにおいても少しも変わりなく与えられている、という恵みを指し示す幻が預言者として立てられるエゼキエルに示された意味は限りなく大きな意味を持っています。第一に、「わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている」(民数記14章21節)という言葉の真実が、まさにここバビロンの地においても明らかにされているからです。そして第二に、それがエゼキエルに示されたということは、主は彼をご自身の口として立てられたことを示しています。彼がどのような民の反逆にあっても、神の口として働く彼の働きはゆるぎない主の栄光の中で支えられていることを確信させるしるしとなっているからです。エゼキエルはこのように、「主の栄光の姿の有様」(エゼキエル書1章28節)を見ることによって、預言者としての確かなゆるぎない土台を与えられました。聖霊の導きと、主の臨在をしめすペンテコステの出来事は、主の昇天後も、教会の宣教に対し主の力と恵みが、主がおられた時と同じように与えられており、異邦人に向けて働くことを先取りして示すものでありました。エゼキエルの場合は、異郷の地にあるイスラエルに示される聖霊の導きと、主の臨在を示す恵みとして与えられています。

主を礼拝することは、先立つ主の臨在と霊の導きなくして不可能です。主の臨在と聖霊の導きを示す点で、両者の間には相違がありません。全地に満つ主の栄光がそのように示され、信じられる時に、確かな救いを確信し、喜びの礼拝が守られるようになります。この点で、エゼキエルの召命の日に示された幻は、霊的礼拝の意味と目的を知る上で重要な意味を持っています。

旧約聖書講解