エレミヤ書講解

29.エレミヤ書18章18-23節『エレミヤの報復の祈り』

ここに記されているのは、預言者エレミヤに敵対した者たちのエレミヤの命を奪おうとする陰謀の言葉と、それを耳にしたエレミヤの報復の祈りです。エレミヤの敵となった者とは、祭司、賢者、預言者たちです。彼らはエレミヤの説教によってその権威が様々に揺るがされました。既に、4章9節以下、8章9節以下、14章13節以下において、エレミヤは彼ら指導者たちの麻痺した態度に対して下される神の審判について語っております。民の精神的指導者に対するこのようなエレミヤの攻撃が、彼らの怒りを買い、この厄介で危険な批判分子であるエレミヤを片づけてしまおうとの陰謀の下に、彼らをエレミヤ弾圧の共同戦線へと統一させることになりました。

エレミヤがこのような陰謀を受けたのは何もこれが最初であったわけでありません。11章18節以下にも、アナトトの人々によるエレミヤ殺害の計画のあったことが記されています。しかし、ここで行動を画策するエルサレムの民の指導者たちの方法は、それとは異なっていました。彼らの方がより細心で、より狡猾であり、より陰険でありました。なぜなら、彼らは預言者エレミヤ自身の「舌をもって彼を打とう」とエレミヤのどんなことばも聞き逃さず、その言葉尻を掴もうとしていたからです。エレミヤの言葉は、それが語られている文脈を切り離してしまえば、彼らにとって、エレミヤをイエスの裁判のときと同じように、死罪とする法的根拠になり得るに違いないと思えたからです。

しかし、エレミヤに対する尊敬の念は、19章1節からも推測しうるように、民の長老や長老格の祭司の幾人かの間では、依然として根強く、その影響力は失われていませんでした。それゆえ、エレミヤに敵対していたエルサレムの民の指導者たち、即ち、祭司、賢者、預言者たちは、まず法的に自分たちの立場を確固たるものにした上で、秘密のうちにエレミヤに対する行動を起こす必要があると考えていました。どのようにしてエレミヤがこの秘密の内に行った彼らの申し合わせを知るに至ったのか、私たちは知ることはできません。なぜなら、エレミヤはこの事に関して、その重要な点だけを祈りの導入として簡潔に語っているだけだからです。死の恐怖に晒されているエレミヤがここで祈り求めるのは、その敵対者たちに対する主の判決です。

このエレミヤの報復の祈りは、嘆きの詩篇の形式が取られています。

エレミヤに敵対する祭司、賢者、預言者たちは、エレミヤの語る言葉尻をとらえて、エレミヤを訴え、彼を死罪とする計略の方法を思いめぐらしています。しかし、エレミヤは、神がエレミヤのことを心にとめ給うようにという神への嘆願をここに向かい合わせています。エレミヤを陥れようとして機を窺う人間の悪意に対する不安と、神に対する信頼とが、ここに対峙しています。そして、その不安は神への信頼によって克服されます。エレミヤは神の前に述べる「嘆き」の中で、神の義しい裁定を期待しています。

20節の「悪をもって善に報いてもよいのでしょうか」という問いがエレミヤから神に向かって発っせられています。これは、神の義を巡る問いであり、エレミヤは、嘆きの詩篇において祈る人たちと同様に、神の義に訴えているのです。エレミヤは、神の義をあくまでも信じるがゆえに、嘆きの詩篇に特有の「無実の告白」という文体を用いて、今や悪をもって報いられようとしている彼の善を、神に思い起こしてもらおうとしているのです。エレミヤはこれまで執り成しの祈りをする者として、ヤハウェの怒りを民からそらしてもらおうと、神に祈ってきました。そのことを神が思い起こしてくださるように、「御前にわたしが立ち、彼らをかばい、あなたの怒りをなだめようとしたことを、御心に留めてください」と祈るのであります。

エレミヤは、義しい神の判決がこの裁判に際してどの様に下されるかということに対して、一瞬たりとも疑いません。なぜなら、エレミヤは、今まで、絶えず彼に敵対する者から神の怒りの審判を遠ざけようと祈ってきたのであり、しかも、このようなエレミヤの執り成しの祈りを、神はたびたび禁じるほどでありました。それほど深くエレミヤは民を愛し、この指導者たちに対して辛抱強い忍耐力をもって接し、彼らのために神に祈り続けてきたのです。そうであればこそ、彼の生死に関わるこの時点に至って、エレミヤにはもはや民に対する神の怒りの審判を止まらせる理由がなかったのです。エレミヤはここに至って、これまでの祈りと異なり、激しい報復の祈りによって、自らこらえていた憤激の手綱を緩めています。

ここで語るのは、もはや、主の預言者としてのエレミヤではなく、人間エレミヤです。思いやりのある繊細な心の持ち主であったエレミヤの性格が、残忍とさえ見えるこの怒りの爆発の中で、その裏側をのぞかせます。エレミヤは民の指導者たちの背信の罪から来る審判が、貧しい民や、弱い婦人や子供たちを巻き込み、過酷な運命を強いるものになることに対して、同情の気持ちを抱き続けてきました。しかし、ここではあらゆる同情が憎悪の気持ちに圧倒されています。エレミヤがここで、彼の敵対者たちおよびその家族に下るようにと願う破局の戦慄すべき描写を行っていますが、ここでエレミヤの心を支配しているのは憎悪の思いだけです。エレミヤがこのように漲る憎悪の思いへと進まざるを得なかったことについては、人間的にはよく理解できます。とりわけ、26章20節以下に記される、エレミヤと同時代にエレミヤと同じ立場で同じ預言をした預言者ウリヤの運命のことを思い浮かべるならば、このことはよく理解できます。

この瞬間において、預言者は、他の人々と同じく、一個の人間になっています。従って、エレミヤを聖人君子のように仕立て上げようとするあらゆる試みは、人間としての彼の苦悩の重さや深さをかえって希薄にしてしまうことになります。エレミヤは一個の人間として、とことん自分の置かれている状況の中で苦しみ抜き、その預言者としての召しを全うすることを考え抜きました。この報復の祈りの中に彼の苦悩の深さを私たちは聞くことができます。

そして、彼は旧約の伝統の中に立ち、彼の信仰はそこに規定されていました。神はすべてを知っておられるという信仰に基づいて、敵対するものの罪をヤハウェが彼らの罪を許し給わないようにと願う祈りも、この旧約の限界の中にあったと言わざるを得ません。そして、このような祈りは、これと対照的な十字架上の主イエス・キリストの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」ということばによって、正しく裁かれています。十字架上の裁きを考えることをなしに、エレミヤのこの報復の祈りから、更にそれを超えて新約に至る道は通じることはありません。

エレミヤは、ここにおいて、ヤハウェの審判の決断のときを見据えています。

23節の最後の「御怒りのときに」という彼の言葉がそれを示しています。その時には、神はエレミヤの敵対者たちの罪を「思い起こし」「神の前で」実際、彼らに宣告した呪いの災いを下されるであろうというのであります。

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