エレミヤ書講解

47.エレミヤ書30章1-24『回復の約束』

エレミヤ書30-33章には、捕囚の民の帰還を約束する希望のメッセージが語られています。その内容から「慰めの書」と呼ばれてきました。しかし、これらの言葉がエレミヤに由来するものかどうかについては注解者の間で意見が分かれています。30章にも申命記史家による編集の手が加えられていると考えられる箇所が多くあります。4-24節にあるヤコブ(イスラエル)の災いと救いを語る言葉は、初期のエレミヤのいくつかの預言をユダとイスラエルを含む全イスラエルの回復という視座の下に集められていると考える聖書研究者の意見もあります。その可能性が高いと思います。

30章1-3節は、回復の約束を語る「慰めの書」(30-33章)全体に付された序言ですが、捕囚時代の申命記史家による序文と考えられます。

エレミヤは、背信的で、不従順な神の民に対する神の裁きを告知しましたが、その裁きを越えて、神の民としてのイスラエルのためになされる新しい発端についても預言しました。そして、エレミヤの告げたとおり裁きが現実として起こりました。こうしてイスラエルに続きユダ王国も滅びました。祖国から多くの人が捕囚とされ、追放されましたが、国民の大部分は祖国にとどまっていました。数的には国民の少数の人たちだけが捕囚とされました。その捕囚の時代にイスラエルとユダの故国への帰還がこれら捕囚の人々に語られました。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。なぜそのようなことが可能となったのでしょうか。その根拠にエレミヤの預言がありました。24章にある二つのいちじくの幻がそれです。この幻は、捕囚民を「良いいちじく」として示しています。そこには、バビロンに捕囚とされていた人たちが将来の神の民に対して神が持つ目的の、真実でふさわしい唯一の継承者であると信じられていた証拠が示されています。申命記的著者、エゼキエル、第二イザヤは、イスラエルを再興する神の残りの民は捕囚民の中にいるという理解を示しています。すなわち、これらの民だけが神の選ばれた民の将来のためにヤハウエが持つ計画の対象とされているというものです。彼らの預言の根拠にエレミヤが示した新しい発端があると考えることができます。

30章1-3節の序文は、申命記的著者が、悔い改めない民に向けて、後の証しとするために記す目的で、これらの言葉がエレミヤに与えられたことを明らかにする目的で記されています。この民の運命を逆転させる希望の根拠は、主なる神が、民を憐れむと約束した、その約束の中にあることを明らかにしています。

神の救いの計画は将来捕囚とされた民からはじまる。この希望の下に4-24節の「ヤコブの災いと救い」の言葉が集められています。ヤコブは北イスラエルをさしていますが、ここではユダを含めた全イスラエルを指す総称として用いられていると解すべきでしょう。主の言葉に聞き従わないイスラエルに訪れるヤハウエの日は、恐るべき審判であることを示すエレミヤの言葉は先輩の預言者たちの説教と共通する特徴を示しています。4-7節と12-17節は、主に聞き従わない民の恐るべき審きを語っていますが、審きを超えた希望・救いを示すことばで結ばれています。

10-11節は、エレミヤより後の時代に属する第二イザヤの影響が指摘されている箇所です。エレミヤの告知した裁きが実現してしまった時代にあって、エレミヤの言葉を思い起こし、悔い改めてそれに従おうとするものに向けられた約束として、これら慰めの言葉を、審きのかなたに表わされる主の救いとして示されています。その救いは「恐れるな」という呼びかけによってはじまり、帰還を約束する主の恵みとして実現することが語られています。そして、捕囚の民に主が「共にいて救う」という約束があたえられています。

18節以下には、廃墟となった都の再建と喜びの回復が述べられています。捕囚の地で民の数を減らしてはならないというエレミヤの手紙(29章6節)は、ここでは「減ることはない」という約束として語られています。主を礼拝するその集いの回復も語られています。自ら犯した罪の故とはいえ、その故に味わった苦しみや代償はここで語られるようなまことに厳しいものでありました。主を礼拝するその集いがたとえ捕囚の地において守られていても、それは、心の底からの喜びの声を上げることのできない寂しさを伴なうものでした。

しかし、「ヤコブの子らは、昔のようになり、その集いは、わたしの前に固く立てられる。彼らを苦しめるものにわたしは報いる。」(20節)という確かな主の約束が与えられています。さらに、その廃墟を再興し集いを固くする「ひとりの指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る」(21節)との約束が与えられています。このひとりの指導者は誰か、明確に語られていません。「王」という称号が与えられていませんし、他国を支配するものとして立てられるということも述べられていません。ここでは、その者が民の中から出るということが強調されているにすぎません。そして、その者は、神に召され、神に近づけられ、命をかけて神に近づく者となるといわれていますので、祭司的な務めを果たすモーセのような人物のことがここで述べられているのでしょう。

22節の言葉は、神との契約関係を示す定型句です。神がイスラエルの繁栄を回復する目的は、神と民との契約関係を再び結ぶためです。捕囚とされた民を「わが民」として再興することを神が欲せられ、そのように実行に移される、そこにのみイスラエルの希望の拠り所があります。その日が訪れるまでイスラエルには、激しい主の審判の嵐が吹き荒れるといわれています(22,23節)。そういう厳しい審判の時を潜り抜けねばならない時があります。主の言葉に聞き従わないで罪を犯した民に下される審判を耐え忍ぶのも信仰です。そしてその時が示され、そのかなたに示される救いの言葉を信じるのも信仰です。「主の激しい怒りは、思い定められたことを成し遂げるまではやまない」といわれています。そういわれた時に、主よいつまでといいたくなりますが、そのように祈り、尋ねることも一つの信仰のあり方を示しています。ひたすら耐え忍ぶのも、時に重要な信仰の問題としてあることを、これらの言葉は示しています。しかし、「終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る」ように主はしてくださるといわれています。

主の民が主の民として再形成される、それは主のご計画の中でなされることであることをこれらの御言葉は明らかにしています。御言葉に聞かないものに下される主の審判の厳しさは、真実に主を礼拝しなくなった聖所を破壊することにおいて表わされ、捕囚にされて祖国から引き離されることをエレミヤは告げていました。しかし、エレミヤは、その審きを受けいれ服すべきことも告げていました。だから、その審判に服しつつ、預言者の言葉に従って御言葉に聞く歩みを立て直しているものにとって、その審きの後になされるという回復の約束は、大きな慰めを与え、喜びをもって受け入れることのできる言葉として聞くことができたはずです。そしてこの言葉は、同じような現実を歩み悩み苦しむものすべてに、大きな慰めを与えてくれる言葉でとして示されています。

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