イザヤ書講解

24.イザヤ書32章15-20節『霊の賜物』

イザヤ書32章~35章は、アモツの子イザヤの記した預言であるといいがたいという意見が多くの注解者から出されています。また一人の人物による預言集でもないとも言われています。しかし、これらの章には、明らかにイザヤの預言を前提にした、苦難からの解放、希望が述べられている、実に慰めに満ちた預言が数多く収められています。この箇所もその一つです。この黙示録は捕囚後の遅い時代、ヘレニズム時代に成立したのではないかといわれています。

捕囚後のユダヤ人の経験は、人間は自らの救いに動き出せることはできず、これを創り出す神の霊の働きに依存するほかはない、という信仰を育てました。現代は、技術の力で未来をわがものとすることができるという考えが支配的で、教育で世界を改善できるという幸福観のもとに、その改造計画が推し進められる、そういう世俗主義の大きな流れの中でキリスト者のものの見方や考え方も蝕まれている現実を無視することができません。その考えの根底には、勿論神は不在ですし、当然のごとく神が世界を支配しているという考えは皆無です。この驚くべき無神性が支配する現実を回避してわたしたちは生きることはできません。しかし、この現実に縛られず、それを超える大きな神の支配、力のあることをキリスト者には知らされています。その力を本当に知るのは、キリスト者のみです。

この御言葉は、決して、人間の活動、努力や計画を排除していません。自らの利益のみを求めて、貧しい者の苦しみを顧みず、搾取や安価な労働力の供給源としか考えないあらゆる時代の人間の王や、一部の特権階級の築き上げた支配の体系に対して、神の御手がいかにして介入されるかを示し、神の御手にある豊かな救済が行なわれる未来を指し示しています。人が人として共に生きるために実際上何がわたしたちに求められているのか、この御言葉は現実の世界の改革に乗り出そうとする者に熟慮を促しています。

捕囚の民が無力で自らの力で立ち得ないように、わたしたちもそれ自身では不完全で、多くの悪にとらわれ、死ぬべき有限な存在でしかありません。平和や正義を創り出すには、実際にはあまりにも無力のように思える、そのようにいと小さき存在でしかありません。しかし、神は生ける方であり、その様な方として無力さに包まれているわたしたちと共におられます。この神は、「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)と語る神であります。この神を信じる者は、どんなどん底の時も、この言葉を想起して、立ち上がる勇気が与えられます。そこから神が開かれる未来を待ち望む信仰を回復することができます。

その導きを与える力はどこから来るのか、32章15-20節を記した預言者は、15節において、「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。」と語り、それが高い天にいます神から来る「神の霊の働き」によってもたらされると語ります。土によって形作られた人は、その鼻に命の息(神の霊)を吹き入れられて生きるものとなりましたが(創世記2章7節)、捕囚の地で立ち上がれないで苦悩中にあえぐ民に、あの創造の時に、人を生きるものにした神の霊の同じ力によって、立ち上がらせ、活かす、いわば第二の創造としての神の救済がここに語られているのであります。虐げられ貧しくされた人の心と体は、「荒野」のように渇ききって、意欲もなく「不毛」の日々を過ごしています。しかし、神の「霊が高い天から注がれる」と、「荒野は園となり、園は森と見なされる」(15節)ほど豊かにされるといわれているのであります。

勿論これは、現在は荒廃しているエルサレムに向けて語られている救済預言であります。「エルサレムの心に語りかける」(40章2節)言葉であります。そのためにしなければならないのは、もう忘れ去っていたかもしれない、神の言葉に耳を傾ける信仰の回復であります。信仰を回復することもできない者に、そう言ってもそれは難しいことかもしれません。しかし、そのような者にも、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(40章3節)という呼びかけがなされているのであります。それは主が働かれる為に、道を開き、心を開きなさいという呼びかけであります。顔を高く上げ、主に心を向けて開く者にも、その様にできなかった者にも、「霊が高い天から注がれ」、心を開けてくださるという恵みが示されるというのであります。その様な主の働きのあるところでは、「荒野は園となり、園は森と見なされる」現実の転換がはかられる、というのであります。

神によるこの霊の注ぎ出しは、何者も対抗することのできない神の力の伝達としてなされます。そして、それは真の服従をもたらします。神がこの地上の為政者に期待したのは、正義と公平に基づく平和な統治であります。

しかし、愚かな為政者は、第一に神に聞くことをせず、したがって神の支配を畏れないことによって、人を侮り、自らの利益や、自らの知恵と力にのみより頼み、正しい裁きを求める民の訴えを退け、正義を犠牲にし、それがために国には争いや無秩序が横行する平和のない状態にしてしまいがちであります。

まさにエルサレムは現実にその様な舞台としての役割を果たしてきました。エルサレムは、荒野のように荒廃し、人もろくにすめない無残な姿をとなって存在していました。そのエルサレムが「園」となり、「森」とみなされるほど潤されるのは、第一に、神の「霊」の働きよりますが、それは同時に、そのところに正義と公平をともなうものとして語られています。神の霊はその様なかたちにおいても勿論働いていますが、人の信仰の自覚の問題として、その様な具体的な業を実現することもまた大切であります。

旧約的思考にとって、豊穣と人間の正義とは相関連しています(イザヤ11:1—9、詩編72篇)。真に豊かな社会、真のエルサレムの姿は、第一に神の霊の働きによってもたらされるものでありますが、それは、その支配に服する正義によって規定された人間の社会生活が自然の変貌を伴って実現するものであることを、これらの御言葉は語っているのであります。

捕囚という体験は、「わが民」とされたイスラエルが、主の民としてふさわしく、主に聞くものとして生きなかった結果、神が忍耐に忍耐を重ねても悔い改めなかった結果、ついに主が「わが民でない」といわれて、一度捨てられたものとしてあります。しかしその者に、主は再び「わが民」(18節)と呼んで、民の回復された恵みを次のように語られます。

わが民は平和の住みか、安らかな宿
憂いなき休息の場所に住まう。

もはや貧しさや、悪政に心煩わされることなく、正義と公平が行なわれる社会の中で、平和に住まい、安らかで、憂いなき休息をえる場所に住まうことができるといわれています。そこは、神殿があり、神を礼拝する場所でもありました。ただ安逸に安らぎをむさぼり、それに満足してまどろんでいるだけの場所として、その場所に住まうのではありません。その霊は、神を喜び、真の礼拝を神に捧げ、神の懐で憩うために与えられたのであります。かつて虐げられ苦しんだ「わが民」をこのように神は扱われるというのであります。

他方、「わが民」を虐げた国、悪しき支配者、彼らを顧みない特権階級の人々は、かつて「森」のように潤い、繁栄を極めていたかもしれませんが、「しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。」(19節)といわれているのであります。

豊かな繁栄を誇る森の豊かさは、雹に打たれて、その木々は折れ、彼らより強い支配者や侵略者によって辱められる、ということがここでイメージされて語られています。人はその様にしてしかおろかさに気づきません。しかし、そのおごり昂(たか)ぶりをくじくことは、彼らには救いに至る悔い改めへのチャンスでもあります。その様に神の裁きは、すべての人への救いの招きとして語られているのであります。そのような救いが語られる文脈の中で、19節のこれらの言葉は似つかわしくないという評価が昔からありますが、これらの言葉が神の霊の働きによる救いの時にあるものとして語られているだけに、そのことに対して奢(おご)る支配者には、希望の転換に必要な苦しみ、として語られています。悲しいことですが、神を忘れて奢る者には、そのような形でしか現実に悔い改め、正しい転換への道は訪れないという事実を見なければなりません。

最後に、主の霊が注がれ、正義と公平が宿る世界へと回復された国は以下のようにいわれています。

すべての水のほとりに種を蒔き
牛やろばを自由に放つあなたたちは
なんと幸いなことか。(20節)

水のほとりに蒔かれた種は、いつも豊かな実りをもたらせます。詩編1篇2節によると、それは、「 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」に与えられる恵みとして語られています。神はこのように人を改革し、新たにして、全存在を豊かにするため、霊を注がれるのであります。

「牛やろば」は、イザヤ書1章2節以下によれば、主人(神)の存在を忘れたイスラエルに優る、主人の飼葉を知る動物として、その恩を忘れない動物の代表として語られていました。しかし今や、そのイスラエルの愚かさを気づかせるためにつながれていたこれらの動物が神の霊による解放を与えられ、豊かな森とされ潤された人を自由にして解放することができるほど幸いを与えられると語られています。
そのような救いの実現は、まさに「キリスト・イエスの日までに」与えられる恵みとしてわたしたちには知らされているのであります(フィリピ書1章6節)。

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