ハバクク書講解

5.ハバクク書3章1-15節『主の道は永遠に変わらない』

ハバクク書の3章は、詩編の形に整えられており、神礼拝において実際に用いられたと思われる。文学的な形式としては「個人の嘆きの歌」に属する。3-15節は、「終末論的賛歌」であり、16節以下は、結語部分である。そして、この賛歌は、2節と16節の言葉によって大きな枠組みが与えられている。ハバククは、この枠組みの中で、自らの特別な召命体験を語っている。ハバククは、一方において、「懇願」を、他方において、この幻がまもなく実現するであろうという「希望」を表明している。

2節は、ハバククの神への祈りである。ハバククはこの祈りにおいて、神に感謝と畏れを持って、神の御業を見聞きすることを許された喜びを表明している。彼の恐れは、「諸国を見渡し、目を留め/大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。」(1:5)という主の言葉と深い関わりがある。しかし、この幻の見聞体験は、預言者の信仰を強め、更なる信仰の祈りを導くことになった。

ハバククは、「数年のうちにも、それを生き返らせ 数年のうちにも、それを示してください」と祈っている。「数年」とは、カルデア(バビロニア)人による圧迫下の苦悩の時であろう。「生き返らせ」は「知らせ」と読むこともできる。ハバククは、この啓示が、自身の生涯が終わった時に実現する、あるいはこの世界の終わりに実現する、遠い「終わりの日」における主の救い(エゼキエル38:8)として述べているのではない。ハバククは、それが自分の生きている時に起こることを願っている。それも2、3年のうちに起こることを願っている。これは尋常ならざる彼の切実な祈りであった。「怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください」という悲痛な訴えの中にそれを見ることができる。これは愛する祖国への我々の祈り、愛する家族への我々の祈りでもある。

ハバククは、この祈りの中で、3-7節において、啓示された「神の到来」を描写している。ここでは神は3人称で語られている。栄光に包まれた神が南から山を越えてこられるのを預言者は見ている。「テマン」はカナンの南の砂漠地帯、または単に「南の地」を意味し、創世記によるとエサウの子孫の地で、ここではエドムの地を指す。「パランの山」はイスラエル人がシナイ山を後にして初めて入った砂漠地帯の名称であるが、ここではカナンの南の境、シナイの荒れ地の北の地帯を指す。ハバククは、今も実際に神の御住まいがそこにあって、そこから神が近づいてこられると信じていたわけではない。そこはモーセが神から啓示を受け、エジプトの奴隷の地から解放されたイスラエルが歩むべき律法が与えられた場所の近くにある、神は今もその様な近さにおいて臨んでくださり、その栄光と力を現し、驚くべき恐るべき力で助けを表されるお方であるとの信仰を表明しているのである。

ハバククは、今、自分が神の「威光」に向かい合っているのを知っている。しかし、ハバククはその威光を示す神の形状を示さない。それは、イザヤもエゼキエルもしなかった。人は神と顔と顔を合わせて生きることができない、また神は霊であって人ではないから姿や形で表せない、というモーセ以来の信仰がそこに反映している。だから預言者は栄光に輝く神を暗示的に語る以上のことはできない。しかし、その威光の内に隠されている驚くべき神の御力を語る。どの様な恐るべき疫病も神の恐るべき力に比べるなら取るに足らず、その力に従わざるを得ない。

「主は立って、大地を測り 見渡して、国々を駆り立てられる。」(6節)お方である。しかし、この全世界と地上の国家に対し永遠に不変の主権を持っておられる方である。だから、ひとたび主が意志し行為されるなら、「とこしえの山々は砕かれ 永遠の丘は沈む。」といわれる。どのように堅固で不動と思われていた山や丘も消滅することがある。「しかし、主の道は永遠に変わらない。」とハバククは言う。「主の道は永遠に変わらない」ということは、主を信じて歩む者のその歩みはいつも確かであるということである。主の約束と救いは失われることはないということである。

ここには主によって滅亡させられる「国々」として、クシャンとミディアンの名が上げられているが、これらの国がシナイに一番近く天幕を張っているからである。審き主なる主の近くにいて、その審きに耐え得るものはいない。滅亡をまぬがれ得るのは、主に最後まで信頼して従う者のみである。

7節まで客観的に述べられてきた文体が8節で突然語りかけの文体に変わる。それは、不気味に歩み寄る神が突然この預言者をもその緊張の只中に置いたのであるが、その緊張に耐えられないかの如く預言者は、突然語り出す。ハバククは、自分に示された啓示体験の意味を問うのである。ハバククは、雲の馬に牽かれた戦車に乗られるのを見た。また、神が弓を箙(えびら)から取り出し、次々に矢、光を放たれるのを見た。主が引き起こした流れ降る大量の水によって大地は川の流れとなって溶けさり、打ち込められた光によって山々は揺れ動く。大地はその淵の水が雷鳴をとどろかせて動き出す。太陽と月は、神が矢と槍として利用している閃光の恐るべき、不気味な輝きに圧倒されている。ハバククが見た光景はこのようなものであった。

ハバククは今や、神顕現の意味を知り、8節の問いに対する答えを得ることになる。その答えは12節において示されている。

あなたは、憤りをもって大地を歩み
怒りをもって国々を踏みつけられる。

ここで、川ではなく、地上の諸国民こそが、神の怒りの対象であることが明らかにされている。ここにはこれまでのハバククの預言と相違している所が見られる。それは二つの点で見られる。第一は、これまでの預言においては、諸国民は世界強国に対して保護されていた(1:17,2:8)が、今や、審きの対象が明確に語られる。16節において、審きは「我々に攻めかかる民」に限定されていることにおいて明らかにされている。第二に、終末において、ユダに対してあらゆる国民が攻め寄せるが、それらの国民は何らかの仕方で処罰されるということが明らかにされている。

13節に至って、神顕現は、神がその民と油注がれた者を救うために出て行きなされるものであることが明らかにされている。「油注がれた者」とはこの場合王を指す。主はその救いを実現するために「神に逆らう者の家の屋根を砕き/基から頂に至るまでむき出しにされ」る。救いは徹底してなされる主の御業として起こることがここに明らかにされている。

神は悪しき敵の頭をご自身の矢で刺し貫き、二度と抵抗できないようにされる。14節後半の「彼らの喜びは、ひそかに貧しい者を食らうように/わたしを追い散らすことであった。」は、ヨシヤ王の死から前598年の第一回捕囚までのユダの状況を示している。この状況の転換をなし得るのは主なる神のみである。

その時、神は介入し、出エジプトの時のファラオの軍勢のように、バビロニアの馬とその軍勢を滅ぼされる。

ハバククの見た幻は、「主の道は永遠に変わらない」確かさを、主の驚くべき御力による上からの支配から得ていることを徹底して語っている。わたしたちの信仰とその生活の確かさもそこからのみ与えられる。

旧約聖書講解