イザヤ書講解

47.イザヤ書46章9-13節『思い起こせ、初めからのことを』

46章9節冒頭の「思い起こせ」という言葉は、3節の「わたしに聞け」という言葉を受けて語られています。3-4節において語られていた約束は、この9節以下で敷衍(ふえん)して語られています。

9節の「初めからのこと」は、すでに3節後半で、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」という言葉で先取りして語られていたことを、ここでもう一度思い起こすように促されています。ここで呼びかけられているのは、捕囚の地にあるイスラエルの人々です。彼らは今、自らの歴史を想起するように促しを受けています。それは、イスラエルを生まれたときから担い、老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こうという、神の呼びかけの言葉です。そして呼びかえられている彼らは、「イスラエルの残りの家の者」(46章3節)です。彼らはこの歴史の中で、単に悲惨な中を敗残兵として生き延びたのではなく、神の救いの恵みによって生き延び、「イスラエルの残りの家の者」とされたのでありました。それは、44章8節で、「あなたたちはわたしの証人ではないか」と呼びかけられているように、主の歴史の証人となるため、また、主の恵みとしての救いに与るために、残された存在でありました。

だから彼らは、12節において、「わたしに聞け」と呼びかけられて、主の救いの知らせを受け入れるように呼び出されているのであります。しかし、イスラエルの家の残りの者が、その未来における救いの事を聞く前に、また、その来るべき救いがいかに確実で信頼に値するものであるかを確信させるために、第二イザヤは、「思い起こせ、初めからのことを」という言葉で、過去においてイスラエルの民が神と共有した経験を思い起こさせ、その救いの確かさをその歴史の上に根拠づけるのであります。

この想起を促す言葉は、第二イザヤの信仰を理解するうえで重要な意味を持っています。彼はその救いの知らせを信じるように、聴衆に呼びかけるとき、彼らに向かって、自らのわざとしての「信仰の力」を奮い起こせといっているのではありません。わたしたちの信仰には、根拠があります。それは信じるわたしたちの業にではなく、神の歴史における救いの業にあります。だから信仰が求められるとき、それは常に神の救いにおける歴史的経験思い起こし、現在の問題と、将来における事柄が、神の救いの延長として、その確かさをはじめて覚えることができます。第二イザヤにとって、歴史から切り離された信仰というものは存在しません。過去を背中において忘却するのではなく、前において絶えず想起し、過去に救いを与えた神は、今日も、明日も救ってくださるだろうと、信じつつ未来を肯定すること、そこに実存的な信仰の働きがあります。だから、信じつつ未来を肯定することは、神の民の歴史において実証された神の信頼性を肯定することでもあるのです。使徒パウロは、第二イザヤと同じ信仰を、フィリピ書1章6節で次のように明らかにしています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

「初めからのことを」思い起こすその業は、それは受け継がれた信仰の伝統と切り離して考えることができません。それは硬直した制度を単に棒持(ぼうじ)することではなく、信仰によって生かされ、神の救いに与って生きてきた民の歴史、その伝統を受け継ぎ生きることです。詩編の作者は、次のようにその信仰を言い表しています。

わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。(詩篇22:5)

これはまさに第二イザヤが、「思い起こせ、初めからのことを」と述べているのと同じ信仰を表わしています。神を信じるということは、神が歴史のどの局面においても、変わることなく神としてその歴史を支配し、導きを与え、約束し、その約束したことを必ず成就される、ということを信じることです。それはまさに、10節において、

わたしは初めから既に、先のことを告げ
まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。
わたしの計画は必ず成り
わたしは望むことをすべて実行する。

と、述べられる神を信じることです。

そして、このように語る神は、イスラエルの土地においてのみ、また彼らの歴史にしか影響を及ぼし、その範囲でしか力を表せない方ではなく、遠く離れた国においてもその御手が及び、彼らの救いのためにその力を働かせることができることを、11節において次のように表明されています。

東から猛禽を呼び出し
遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。
わたしは語ったことを必ず実現させ
形づくったことを必ず完成させる。

これはペルシャ王キュロスによるバビロンの滅亡と、それによって与えられるイスラエルの救いのことが述べられています。そのようなことをなしうる救いの根拠は、神が過去に行われた奇跡にあります。神の言葉だけに救いの根拠を置くプロテスタントの信仰は、ややもすると知識の偏重になりがちですが、神の言葉は、語られたことが出来事として起こる、歴史を変え、歴史を創り出して行き、完成させるものとして生きて働くものです。

神は、次のような希望ある未来を切り開かれる方です。

見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。(イザヤ書43章19-20節)

この未来を切り開かれる神が「わたしに聞け」と、ここで呼びかけているのです。しかし、この神から呼びかけられているイスラエルの家の残りの者は、「心のかたくなな者」「恵みの業から遠く離れている者」として歩む、「地の闇の所で」「混沌の中に」(43章19節)、自分たちは今なおあえいでいると感じて、自分たちをその様な目にあわせたといって、ひねくれた心で神を告発する人たちでありました。

しかし、そのようにひねくれた心をいつまでも持ち続けるイスラエルの家の残りの者に向かって、神は13節において、次のように言われます。

わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。
もはや遠くはない。
わたしは遅れることなく救いをもたらす。
わたしはシオンに救いを
イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。

神はイスラエルの過去を導き支配するだけでなく、今や、遠い国のペルシャ王キュロスさえ、油を注ぎ、イスラエルの救いのために用いられる方として、その歴史や領土の境界を越えることのできる方として自らを示されます。そして、イスラエルを苦しめていたバビロンの神々は倒れ、諸国民の神々の限界が示され、その神々は、自らがその神像に拘束され、諸国民を担うものではなく、むしろ担われなければどこへも行けない無力なものであることを実証しました。しかし、イスラエルを担う神は、彼らの生まれたときから、老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう、といわれる方です。

そして、この神は、今や諸国民をも、「残りの家の者」に加え、背負い救いを貫徹される神として、自らを示されました(イザヤ書45章22節)。この神の救い、恵みは、遠くはなく、近く、決して遅れることなく、間近で行われることを13節の結びの言葉において明らかにされています。

希望ある未来、救いを切り開くのは神です。辱められたイスラエルの汚名をそそぎ、輝きを与えるのは神です。この神は、今わたしたちに、イエス・キリストにあって、希望ある未来を切り開いて下さっています。決して遠くなく、近く成し遂げられる救いとして、遅れることなく与えられる、絶対確かな救いを与えてくださいます。それを確かなものとして知ることができるのは、イエス・キリストにおいてなされている、十字架と復活の出来事です。「思い起こせ、初めからのことを」といわれる、この救いをしっかり見る者に、終末の救いの確かさを確信させ、現在の様々な戦いに勝利する信仰を与えてくださいます。「わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。」との約束は、わたしたちにも妥当する言葉として与えられています。その輝きは、わたしたちの業としての信仰の輝きではありませんが、しかし、わたしたちの信仰の中に、主が約束される主の「わたしの輝き」として輝くものです。

旧約聖書講解