イザヤ書講解

52.イザヤ書51章9-16節『慰め主なる神』

詩編44篇には、バビロンによって破壊され、廃墟となったエルサレムの苦悩、神への抗議の嘆きが歌われています。その24節に次のような嘆きの言葉が記されています。

主よ、奮い立ってください。
なぜ、眠っておられるのですか。
永久に我らを突き放しておくことなく
目覚めてください。

しかし、エルサレムに残されたイスラエルだけでなく、バビロンに捕囚とされたイスラエルにとっても、同じ嘆き、苦しみがありました。捕囚の民の生活は、実際には、私たちが想像する以上に自由が与えられ、経済的に困窮するものもいたでしょうが、それなりの豊かさを享受している人もいました。しかしその捕囚の地でたとえ豊かさを享受できたとしても、祖国から切り離されて生きることの苦痛は誰にとっても耐え難いものであったに違いありません。長く続く捕囚の日々、神の沈黙、これらは神への失望や疑いを生み、異教の偶像の神に仕えるものさえ表れました。しかしなお、神を待ち望む信仰を呼び覚ます動きも、わずかですが残っていました。その働きをしたのが第二イザヤです。

彼は、主の召しを受け、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(40章1節)という使信(メッセージ)を携えて、主の慰めを語りました。しかし一向に現れない神の救い、捕囚の長期化は、彼らの祈りを嘆きに変えて行きました。しかもそれは激しい嘆きとなって表れました。第二イザヤは、民に創造の神と贖いの神の同一であることを語りました。世界を創造された神は、歴史を支配される方でもあります。イスラエルを選び、彼らの祖先をエジプトの奴隷の地から導き出し解放された贖い主でもあります。その神の支配、介入は、このバビロンの捕囚の地にも及び得る、それこそが第二イザヤによって告げられた希望の言葉でありました。この言葉を信じるにせよ、疑うにせよ、彼の告げた使信は、一つの嘆きの祈りを明らかに導いたはずです。その祈りとは、51章9-10節の言葉において表明されているものです。

捕囚の民は、第二イザヤの使信を聞いて「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ」との嘆きの祈りを主に向かって発しました。「遠い昔の日々のように」、今こそ主の救いを明らかにして欲しいとの、主への激しい要求、それを実現しない神への疑問となって表れています。

このように主に向かって抗議する言葉、疑問を提示する言葉も一つの信仰の表現として認めることができます。しかしこれらの言葉に心底からの主への信頼に満ちた信仰を認めることができるかというと、そうとも言えません。

確かに悲惨な現状を打開するには、主が「奮い立って」、その力を持って、「御腕」を伸ばされることが必要です。そのことがなければ現状は何も変わらない、この現状認識の裏には、イスラエルはそれほど無力にされているという事実がコインの両面のように付きまとっていました。その認識は正しいとしても、やはりこの嘆きの祈りには、根本的な主への信頼がかけているといわざるを得ない面があります。それは、彼らの「恐れ」にありました。

その根本的な信頼の欠如に対する主の答が、12-14節において表わされています。9-16節全体を貫いている主題は、「恐れるな」という主の言葉にあります。「恐れるな」という言葉は、そのままの形でここには一つも出てきませんが、この単元を貫く主題は「恐れるな」です。それは12節の二行目の、「なぜ、あなたは恐れるのか」という主の言葉によって表わされています。先日の礼拝の説教で、聖書の「恐れる」という言葉は、「信じない」という言葉とほぼ同じ意味で用いられることが多いと説明しましたが、ここではまさにそのような意味で用いられています。

イスラエルの恐れの根本的・究極的な原因は、主なる神への信頼の欠如にありました。その方が誰であるかを見失っていることにありました。神の臨在と導きを、「遠い昔の日々」のこととしてしか認識できなかったと断言することはできませんが、やはり、その苦境の中にも主が現在しておられる事実を見る信仰は弱かったのです。だから主はそのような彼らに向かって、「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」(12節)と自らを示される必要がありました。

この「わたし、わたしこそ」という繰り返しは、「奮い立て、奮い立て」と主に向かって抗議する捕囚の民に対抗する主の意思を示すものです。自分たちのいる現実に神は少しも現在されないと感じる彼らの不信仰に対して、この言葉は語られています。そこにも主がおられるという信仰を見失うとき、わたしたちの心は、「恐れ」に包まれます。それは、何に対する恐れでしょうか。現在自分を脅かしている力に対する恐れです。神の臨在と導きが見えなくなるとき、憂いに変える力、現状の自分の自由を奪う力がやたらと大きく見えてきます。その力は生きることを困難にし、喜びを奪うものとしてわたしの存在を圧倒するように見えてきます。

しかしその存在も、歴史を支配される神の目には、彼らと同じ「死ぬべき人、草にも等しい人の子」に過ぎません。第二イザヤは、「呼びかけよ」という主の声を聞き、主の召しを受けたとき、何の希望も見出せず、打ちひしがれたままでいる民に向かって、「何と呼びかけたらよいのか」と途方にくれていました。そして、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(40章6節)という人間存在についての根本的な認識を明らかにしました。人間は、野の花のような存在でしかない。どの様に美しく咲き誇るパレスチナに咲くアネモネの花も、どの花も草も枯れてしぼむ。「主の風が吹き付けた」からだと第二イザヤ自身が主に向かって抗議をしたのです。しかしそのとき彼に与えられた核心は、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(40章8節)というものです。この神と神の言葉の永遠性を見失っている者には、彼らを支配する敵、異国の支配者の存在もまた、「死ぬべき人、草にも等しい人の子」に過ぎないという事実が見えなくなっています。

彼らは創造者である神に目を向け、エジプトの奴隷の地より導き出した神に目を向けてはいましたが、彼らの現状にも、この神が働いておられる現実を見失っていました。祈り、嘆きの根拠を創造の神と主エジプトの神の同一であることに置きながら、現実の信仰をそこにおいて生きない、矛盾した姿がそこにありました。

だから第二イザヤは、「なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れたのか」といわねばならなかったのです。厳しい現状は、どんなに強そうに見える人の心も挫(くじ)くことがあります。支配者の影が実際以上に大きく、自分の可能性、希望の芽を全部摘み取る力のように思えてくることがあります。主の御目には、その人の信仰の状態は、「滅びに向かう者のよう」です。「苦痛を与える者の怒りを/常に恐れてやまない」、毎日をおびえの中で生きている状態です。しかし、主は、「苦痛を与えているものの怒りはどこにあるのか」と問い返されます。そのようなものは、あなたの心の「恐れ」の中にしかないものではないか、彼らの「怒り」の力はあなたが考えているほど、あなたを支配する力は持たない。なぜなら彼らの存在もまたあなたと同じ、「死ぬべき人、草にも等しい人」に過ぎないと主は言われます。

私たちはそのようなどん底にいるとき何を見るべきか、何の声を聞くべきか、主の答は実に明瞭です。「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」といわれる神です。この神の御声です。神は14節において次のように言われます。

かがみ込んでいる者は速やかに解き放たれ
もはや死ぬことも滅びることもなく
パンの欠けることもない。

主の救いが「遅い」と感じる彼らに、主の救いは「速やかに」訪れることが告げられています。そして主の語りかけがやんだのでも、主の救いの御手が短くて救えないのでもないことを、16節において次のように明らかにしておられます。

わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ
わたしの手の陰であなたを覆う。

この言葉は実際には第二イザヤ自身に語られた言葉だと思われます。彼に対して主が語られたことを、彼は次のように第二の僕の歌で述べています(50章4節)。

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。

このように主の励まし慰めを受けて語る預言者の声を聞くことのできる捕囚の民は、同じ主の慰めと励ましを受ける者とされています。弱っている足を強め、歩き出す勇気と力を絶えず与えることができます。主の言葉にはそのような力があります。なぜなら主は「天を延べ、地の基を据える」創造者であるからです。世界をそのように造られた主は、イスラエルを選ばれた主です。そして民の一人一人を覚え、「あなたは」と呼びかけてくださる方です。イスラエルは捕囚体験を主に見捨てられる「わが民でない」といわれる体験と考えていたかもしれません。しかし、主は、「シオンよ、あなたはわたしの民」と呼ばれています。主は一度選んだ者を見捨てられないのです。「あなたはわたしの民」と呼び、覚えてくださる「慰め主」です。この主の慰めの支配に私たちの歩みが守られています。現在がどんなに悲惨でも、慰め主である主の支配は不変です。ここにこそ、わたしたちのゆるぎない希望があります。

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