イザヤ書講解

40.イザヤ書43章16-19節『見よ、わたしは新しいことを行う』

人間の記憶というのは、自分の人生に起こったことを中心にとどめられます。その人生は、家族や国の歴史と結びついて存在します。その豊かさや貧しさも人は受け継ぎながら生きて行きます。そこで惨めな状態が長く続くと、誰かのせいにして呟いたり、投げやりになって無気力に生きることにもなりかねません。そのような人間にとって、歴史の記憶は、新しく生きる力を促すものとはなりません。また、神は現実を変えることのできる方として想起されることはありません。第二イザヤの告げるこの慰めと希望に満ちた救いの告知は、捕囚から50年以上の歳月が過ぎ、変わらない惨めな現実の中で、過去を引きずって、希望を失っていた者に対してなされました。

彼らは、現在の悲惨の原因を、親や祖父たちの犯した罪のせいであると考えていました。その割に合わない過去を引きずって生きている自分たちに、神は何の助けも与えず、未来に希望を示す言葉も働きも示さないという不信感を抱いていました。だから神の救いの歴史に目を向け、また、未来に向かって神の救いを期待して立ち上がる信仰の勇気と力が、彼らの心の中から湧き上がることはなかったのです。聞く耳を持たず、見る目を持たないということでは、彼らもアモツの子イザヤの時代に生きた祖先たちと同じ人間でした。

そんな人々の心に第二イザヤは、16,17節において次のように告げます。

主はこう言われる。
海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。

第二イザヤは先ず、かつてエジプトから逃げていくイスラエルを紅海で救われた神を想起するように、そのお方を指し示しています。イスラエルの歴史をそこに基礎づけ、その神が今を生きる彼らの現実を変える新しい創造者、救い主として、彼らのために立ち上がられることを明らかにします。

そこでイスラエルがしなければならないことは、引きずっている過去へのこだわりを捨てて、聞く耳を持ち、見るべき目を持つことです。第二イザヤは、出エジプトの神の導きに目を留めさせ、同じ神がこれから行おうとされることへ目を、耳を、心を向けるように促し、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(19節)という主の言葉を告げています。

18節の「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」という言葉は、16-17節のことを言っているのではなく、現在の悲惨の原因を、自分が神に向けて目を開いていないことにあるのではなく、自分の人生の始まりにある動かしようもない現実に目と心が奪われている彼らに向けられた言葉です。いつも「初めからのことを思い出し」て、だから自分はこんな惨めで、いくら努力しても無駄だし、どうしようもないのだという、無気力、倦怠感に包まれていました。過去の記憶はそのように、自己のあり方を堂々巡りさせるためにのみ存在していました。だから、そのように「昔のことを思いめぐらすな。」と預言者は彼らに告げねばならなかったのです。

彼らが目を向け、心を向けねばならないのは、出エジプトの神であり、その出来事において表された神の導きです。その同じ神が、彼らに新しいことを行うといわれるのです。どの様なことを行なおうとされるのか。19節後半から20節にかけて次のように主の言葉が告げられています。

わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

あの出エジプトにおいてイスラエルを救われた同じ神が、まったく新しい仕方で救済者、解放者となられ、荒野を貫く一本の道を通し、その歴史を驚くべきところへ転換させるというのです。それは、「砂漠に大河を流れさせ」、その水にイスラエルの民だけでなく、野の獣、山犬や駝鳥もそれにあずかり、それらの動物たちも主を崇めるすばらしい救いが実現すると語られています。

それは彼らが悔い改めて、主に目を向けるようになったから告げられた言葉でありません。彼らは、自分たちの苦難を、親のせいにしたり、その親たちの罪を自分たちにも神は負わせたままだと考えて、神さえ怨むようにして生きていたのです。神を神として崇める心を失っていたのです。彼らの歩みは、「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。」(22節)というものでした。主にささげ物を持って礼拝することもありませんでした。その彼らの行為は、「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。」(24節後半)と主が言われるように、主の御心を痛めさせ、主が重荷に負わせるものであったのです。主は彼らのことをずっと心に留め、彼らから目をそらさず見守ってきたのです。彼らは、すぐに救い出さない主に恨みを抱いていましたが、主は彼らのことをいつも重荷に思っていたのです。そしてそのような罪深い彼らに主は、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」(25節)とさえいって、忍耐深く、心を広く持って、彼らの罪に目を留めないで、救いの手を差し伸べられるというのです。

「荒野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(19節)といわれる主は、どの様にそれを実現されるというのでしょうか。

彼らは飢えることなく、渇くこともない。
太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き
湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(49章10節)

というすばらしい救いを与えられるというのです。主に決して心を開こうとしない民イスラエルに、なぜ主はそのようなことをなさるのか、21節にその目的が明らかにされています。

わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

それは、世界を支配し世界の救いのために働かれる主の僕として彼らを用いるためです。感謝を向けるべき方に感謝も表さず、心をそらして生きていたものを愛し続け、彼らの罪に目を留めず、それを思い起こさずに生きていた、荒野のように乾ききっていた彼らの心に道を敷き、その渇きを癒すために主は働かれ、彼らを世界の救いを実現しようとされるご自身の目的に仕えさせるために、それをされるというのです。

「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」といわれるイスラエルは、そのようにいわれるに値する信仰を持って歩んだわけではありません。本当の愛を知らずに、それを理解できずに、過去を引きずって、親を怨み、神を怨んで生きていたのです。そんな彼らを、主は愛し続け、主の栄誉を語る福音の使者として、遣わそうとされているのです。主の救いの言葉というのは、このように貧しき弱い者を用いてなされるのです。何も誇るべきものをもたず、信仰さえどこに行ったかわからないで、主の救いのすばらしい御業を、現在の自分を救う言葉として理解できなかったものに、「新しいことをわたしは行う」といって、その新しい救いを、彼らを用い、彼らからその救いを拡大させて世界に行おうとされるのです。

キリストの十字架と復活の恵みの出来事は、今を生きるわたしたちに、そのような救いの出来事として与えられています。主がわたしたちのためにしてくださる救いはまた、主が「わたしの栄誉を語る」ためのものとしてわたしたちに与えてくださるものです。

旧約聖書講解