イザヤ書講解

20.イザヤ書28章23-29節『時に適った神の御業』

この農業についての譬え話は、エルサレムの、否、世界全体の運命についての長い預言の中に、突然割って入ったように語られています。16節が審判を語る預言の中で、救済の預言が割ってはいる形で語られるように、この譬え話は唐突な感じが致します。この預言詩は、審きの文脈の中で語られているだけに、その審きの意味を明らかにする為に、この位置に置かれていると思われます。

さて、28章22節までに、イザヤはヒゼキヤに対してエジプトと結んだ契約を「死の契約」として断罪しています。北のイスラエル王国は、うわべだけの繁栄に酔いしれ、主の御言葉に耳を傾けずに歩み、アッシリアの脅威に対しても、御言葉に立ち帰り、悔い改めを示すことなく、同盟策に溺れたために滅亡してしまいました。それは、イザヤの目には大きな教訓となりました。主の御言葉に信頼しない同盟策は全て空しい結果しかもたらさないという教訓です。南のユダ王国の王であるヒゼキヤは、その教訓を学ぶべきでありました。しかし、ヒゼキヤもまたエジプトとの同盟によって、アッシリアの脅威から免れようとしました。

しかし、イザヤは、その同盟が何の益ももたらさないばかりか、「恥と嘲りの種になるだけだ」(イザヤ30章5節)といって、厳しく非難しています。イザヤは主がシオンに据えられる御言葉による正義と公平を行うなら、アッシリアの脅威という試練に耐えられるが、そうしないなら、まやかしの避け所は一掃され、それにより頼んだものは辱められ、審判を免れえないと語っています。

そこでイザヤは、王と民に悔い改めという収穫を引き起こすために、「聞け、わたしの声に耳を向けよ。聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ。」(28章23節)という呼びかけをもってこの預言を語っています。回心を引き起こすために、イスラエルを一時的に手荒く扱う主の常ならぬ働きを描き出す主の言葉を告げています。

イザヤは、農夫が主に教えられて、ふさわしい実りを生み出すために、どのようにして適当な時期に、適当な順序で、耕作、その他のなすべき仕事を果たさなければならないかを、たとえを用いて語っています。

農夫はまず、固い土地の土を掘り起こします。それは、種を蒔くためです。種は明らかに収穫を期待して蒔かれます。そこには、明確な目的を持った行為が見られます。いのんどとクミンは、香辛料として用いられたり、パンを焼くときの香りづけに用いられたりする植物です。ここで「いのんど」と訳されているヘブライ語のケツァハは、ギリシア語ではメランティオンとなっています。ギリシア語でそう呼ばれる植物は「クロクミン」です。新約聖書マタイ福音書23章23節に出てくる「いのんど」(ギリシア語のアネートン)とは異なります。クロクミンもクミンもどちらもせり科の植物で、一度根を下ろすと大変強い植物で、かなり大量に収穫を期待できたので、細かい配慮なしに種を適当にばら蒔くことができました。

農夫はそうしたものから順に種を蒔き、次に、食料としてはなくてならないもっと価値のある、しかも配慮を必要とする小麦が、畝を作り上げてから植えられます。より収穫の少ない大麦は、特定の定められた場所に植えられます。さらに収穫の少ない裸麦は、畑の境の場所に植えられます。

価値の低い、いのんどやクミンの場合は、「まく」といわれますが、価値の高い小麦、大麦、裸麦の場合は、「植える」といわれています。新共同訳聖書は、「大麦は印をしたところに/裸麦は畑の端にと、種を蒔く」(25節)と訳していますが、「蒔く」という語は、原文に忠実に訳すと「植える」です。神は、「聞け、わたしの声に耳を向けよ。聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ」(23節)と、呼びかける民イスラエルを、そのように価値あるものとして愛し、その収穫を期待し、「植える」方であります。

そして、26節において、この農夫に指図して教えるのは神だと言われています。ここに歴史支配における神の配剤と導きが強調されています。

神の配剤と導きの下になされた種蒔きの作業が終わると、期待されたとおり収穫のときを迎えます。農夫は、収穫されたものを脱穀して食用に適うものとしなければなりません。その時はじめて作業は完成するわけです。

収穫の多い、いのんど(クロクミン)やクミンはその実が壊れやすいので、その上に脱穀板や脱穀車を引き回すことはしません。クロクミンは打ち場で杖で叩いて脱穀し、クミンは棒で叩いて脱穀します。このように、脱穀するものによって、棒と杖が使い分けられます。

しかし、種を蒔く際に慎重に植えられた麦の類は、穂先をほぐして中身を取り出すために、脱穀板や脱穀車によって手荒く扱われます。

それは、高貴なものとされたものが、勿論、それは神の目から見た場合であることは言うまでもありませんが、歴史の中で練り清められる過程で価値少なきものよりも大きな苦難を受けることを示す比喩として語られています。或いは、耕された土地に種蒔きが続き、脱穀のあとで殻粒を集めるということから、破壊に見える行動が実は建設的な意味を持っており、神の審判行為は救済行為に仕えるものであるということが示されているのであります。

ここに農夫の名が具体的に誰であるのか最後まで明らかにされていません。ただ神から教示を受けて行動し、収穫を上げるものはいったい誰でしょう。

この農夫が誰であるか特定することは困難です。しかも、この詩と預言書との結びつきはゆるやかであると主張する注解者がいます。その注解者は、われわれは農夫を忘れて神だけに意味を求めなければならないと言います。神はご自身で全てを時宜に適ってなされるのであり、文脈の示唆によれば、神はいつまでも裁き続けず、救いをも行い、歴史におけるご自身の意図を達成するのである、と結論しています。私もこの解釈にしたがいたいと思います。

神は確かにイスラエルの不信仰の罪を裁かれます。しかし、その審きはご自分のものである収穫物に対してなされる審きであります。自ら高い価値を求めるものを大切に植えられます。しかし、厳しい審判を行います。それは選びの民を回復させるための裁きで、籾殻を脱穀場で振るい落とし、大切な実りを農夫が集めるようにして、神はご自身の手でそれを得られます。イザヤは、「穀物はいつまでも打穀して砕くことはない。打穀車の車輪と馬がその上を回っても/砕き尽くすことはない。」(28節)と語り、その審きは決して、審き尽くして滅亡に至らせるものでないことを明らかにしています。

預言者は、そのようになされる主の御業を見よ、歴史に表される深い主の配慮と導きのあることを、信仰者は覚えなければならない、と語っているのであります。特に、主の審きの下にあって試練を耐え忍ぶ者は、この奇しき主の御業ののちに表される主の回復を覚え続けなければならないという励ましを、今はこうした比喩でしか語れないのかもしれません。

主の審判の彼方にある救いは、信仰の目でしか見ることができません。イザヤは、「これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので/大いなることを成し遂げられる。」(29節)という言葉でこの預言を結び、審判の彼方にある主の救いを信仰の目で見、主の御言葉に「耳を傾けて聞き」、希望をもって主に立ち帰るよう招きをしています。

ここに、何故このような比喩が不自然な形で挿入されているのかという説明もつくのではないでしょうか。審きが主なる神から来ているとするならば、主の選びの民は、その審きが神よりのものである限り、神はいつまでも審き続けず、救いをも行い、歴史におけるご自身の意図を達成されるお方であると信じてよい、十分に信じることのできる理由があります。

特に、信仰をもってそのような試練に直面しているものにとって、この御言葉は慰めとなります。たとえ、人生全体が試練と苦難だけに終始するようなことになったとしても、それは神がその大きな収穫を期待して、その人に与えておられる試練であると信仰の目で見ることができるからであります。

麦の実を農夫が集めるように、神は主イエスを信じる信仰者すべてを、主にあって主の復活の命に与らせられるお方であります。この預言の言葉とあわせて、主イエスが「わたしの父は農夫である」(ヨハネ福音書15章1節)といわれている言葉を覚えたく思います。

旧約聖書講解