ホセア書講解

20.ホセア書9章10-14節『ホセアの祈り』

10-14節は、荒野時代に成立したヤーウェとイスラエルとの特別な関係から、イスラエルの不可避・最後的な審きを語っている。

アモスもエレミヤも、荒野の時代にイスラエルの理想を見ている(アモス5:25,エレミヤ2:2以下)。特に、エレミヤは、「わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のときの愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(2:2)という、主の花嫁としての愛をもって誠実に応える、イスラエルの荒野時代の理想の姿を、主の言葉に聞く「従順」の内に見ている。ホセアもまた、モーセの時代を、神と民との間に曇りのない関係を持った理想の時代、と見ている(2:16-17)。

ホセアは、その荒野時代の理想の姿を思い描き、譬で語っている。10節の「荒れ野のぶどう」と「早なりのいちじく」の譬は、神と民との相互の愛情と献身が、人間の理解を越えたところで成立したことを告げている。

ユダの荒れ野というのは、不毛の大地のように思われているが、決してそうでない。荒れ野は、一晩雨が降ればもう青草が生える。ヘブロンは、今はぶどうの産地となっているが、昔は地ぶどうで、石のところにぶどうを這わせた。石は夏日光で温まり、600メートルの高さがあるから、明け方朝露が下りる。その露を受けて、昼間急に暑くなるからぶどうが甘くなる。荒れ野にあるぶどう畑は、わずかな朝露によって、甘いぶどうの実をならせる。「ぶどう園」の譬えによって、神の御言葉の力と愛の働きが、人の目には最初はわずかのように見えても、乾いた人の心にしみるように語りかけられ、その救いは新たな創造として働く卓越したものであることが示されている。神は、人間の思いでは全く不可能と思われるところで、救いを実現される方であることが示されている(左近淑)。

早なりの「いちじく」も、その味の良さで珍重された。荒れ野時代のイスラエルは、このように荒れ野の「ぶどう」や、早なりの「いちじく」のように、特別な神の愛の対象とされた。ミカは、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主が語られた」(4:4)と告げ、列王上5:5には、「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」と記されている。このように、旧約聖書は、ぶどうの木の下といちじくの木の下で暮らすことを、神による「平安」、恵みとして描いている。

主の民とされたイスラエルにとって、神によってエジプトの奴隷の地から救い出され、荒れ野に導かれたという驚くべき出来事が、主の「選びの民」としての自覚と信仰を育むことになった。この信仰は、イスラエルに対する神の支配を、畏敬の念をもって、感謝して受け入れるところから生まれた。主の民の目に見えない生命力は、神の愛とそれに応える人間の愛(ヘセド)の上に築かれた、神との親密な関係の中に秘められている。それをはぐくみ育てること、それが、歴史の中でのイスラエルに与えられた特別の遺産であった。

「ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」と、イスラエルの民がモアブの沃地のはずれ、バアル・ペオルの山で、異教の偶像礼拝に熱中したことが回顧されている(民数25:1-5,申命4:3)。今、カナンの地でイスラエルが行っている偶像礼拝による背信の罪は、イスラエルの歴史のはじめから既に見られたものであり、それがこの民の特徴となって、主の目にこの民は、自ら奉じている偶像や祭儀と同様、汚らわしいものとなっている。イスラエルは、バアルへと背いていく道を歩んだ。ホセアは神の愛と民の不信を鋭く対立させて、人間の罪の不可解さ、非合理さ、異常さを指摘している。

11節の鳥の譬による言葉は、イスラエルの態度や境遇に見られる不安定さを、威嚇の言葉とともに示している。群れをなし平和に暮らしている鳥は、敵の襲来を受けると、一瞬にしてその場所から逃げ去る。イスラエルの栄誉は、飛び去る鳥の群れのようにばらばらになってしまう、といわれている。

しかし、イスラエルの栄誉は、神の選びである。その民としての存在意義は、神との関係に基づき、深く結びついている。神の選びに応答する、民の神への信頼・信仰、これこそが、イスラエルがイスラエルである道であった。その信仰は、主の言葉・律法へ聞き従う、という具体的な応答をもってあらわされるべきものであると、明瞭に語られていた。だから、神への信仰・御言葉への忠節が消滅したとき、民の生命の根源が、消え去ることになる。ホセアは、このことを民に認識させるために、彼らが帰依していたバアル祭儀が約束する多産を引き合いに出し、その神に帰依した結果、人間の不妊が生じたと告げる。ヤーウェの民イスラエルの偉大な伝統は、歴史の中で神ヤーウェの愛を覚え、主の言葉に聞き従うことによって信頼をもって応える民として歩む、それをイスラエルの栄誉とすることにあった。しかし、その栄誉をイスラエルが忘れたとき、もはや存在を保証するものとならない。

ホセアは、イスラエルの歴史の最後に立って、民の滅亡が最初のときから見られた過ちの結果、と見ている。欺かれた神の愛は、烈しい怒りと変わる。この民が地上から消え失さるまで、やまない怒りの審判として表される。ホセアは、神の愛を赦しとしてのみ語れない。預言者として、侮りがたい神の審きの峻厳さを語る。しかし、「彼らからわたしが離れ去るなら/なんと災いなことだろうか」とホセアは告げる。イスラエルの背信が、主から離れ去り、他の神々へ行くように、主はその背信の民から「離れ去る」ことにおいて、イスラエルを裁かれる。主の不在が審きであるとするなら、主が戻ってくださることによって、イスラエルは希望を再び見出すことができ、栄誉の回復も望める。この厳しい言葉の中にも、ホセアは神の愛を語ることを忘れない。しかし、背信の民に対する主の審きを、決して軽く語ることをしない。主の約束に生き、その言葉に聞き従うものに与えられる約束が、「子孫を多いに増す」というものであったとすれば、主の言葉に聞き従わない民に与えられるのは、子供を「ひとり残らず奪い取る」徹底した審きしかない。

しかし、ホセアはそのように扱われる民の運命を、当然のようにして語り、傍観しているのではない。深い悲しみをもって神に祈り、執り成しつつ、これを語っている。14節は、ホセアの祈りである。14節第2連は、ヘブル語原文では疑問文となっている。「あなたは何を与えようとされるのでしょうか」となる。つまり、これは、ホセアの主に対する問いかけである。ホセアは、民の終わりが神の変えることのできない決定であるなら、せめて一つの願いを聞いてほしい、と神に訴えているのである。生まれても、結局は犠牲として死んでゆくよりも、一人の子供もこの世に出てこないように、とホセアは祈る。この祈りに示されるホセアの愛に、わたしたちは圧倒される。預言者は、民を助けようとしながらも、もはや助けることができないために、こう祈っている。

しかし、この預言者を否認し、迫害したのは民であった。ホセアはそのように否認され迫害されても、その民を思って、心の中で苦しみ戦ってきたのである。ホセアは、民のためにこのように祈ってきたのである。それは、預言者のつらい仕事であった。代理の苦難であり、救い主イエスの祈りに連なる仲保のつとめであった。預言者は、民の苦難を自らのこととして語る。その言葉が、やがて民のところに届く。たとえ将来のことであっても、届く。預言者はそのようにしてしか、神の愛を語れない。しかし、その姿によって、神の愛に期待しているのである。

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