サムエル記講解

38.サムエル記下7章1-29節『神の家とダビデの家』

全イスラエルの王ダビデの物語は、この章において一つのクライマックスを迎えます。ダビデによるエルサレムの占領、ペリシテ人の撃破、神の箱の帰還、これらの出来事は、ダビデの王室が永遠に堅くされるという神の約束に導かれて行きます。1節において、「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。」と記されていますが、8、10-12章には、戦いに関する細かい記述が記されていますので、時間的な順序で言えば、ダビデが周辺の敵との戦いに勝利して王宮を建設し、「安らぎを与えられる」出来事は、12章の後に来るべきだと思われます。しかし、サムエル記の記者は、時間的な順序に従わず、意味的なつながりを重視し、神の箱の帰還と結びつけて、この物語をダビデ王の物語のクライマックスとしています。そして同時に、多くの罪に過ちに満ちたダビデ王朝王位継承の物語への導入部として、この章に重要な位置を与えようとしています。

神の箱がエルサレムに帰り、王がそこに王宮を建てて住むようになり、周囲の敵が主によって退けられ、イスラエルに安らぎが与えられるようになった時、ダビデ王は、自分はレバノン杉でできた立派な家に住めるようになったのに、神の箱は相変わらず粗末な天幕に置かれたままであることに心を傷めました。ダビデは神の箱をこのような場所に置いたまま放置することは、主なる神とその箱に対する侮辱となるのではないかと考え、王の顧問官をしていた預言者ナタンを呼んで、その心のうちを明かしました(2節)。これを聞いた預言者は、この敬虔な王の考えに賛意を示し、王の心のままに行うように答えました。

しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は、「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。」というものでありました。

主は、これまで神の箱を堅固な家の中に安置することを一度も命じたこともなければ、そのように望んだこともないと言われて、王の計画を退ける御旨を告げられましたが、実際には、シロが聖所とされていた時に、神の箱は家の中に収められていました(サムエル上1-3章)。この点から考えるとダビデに告げられた主の御旨は矛盾しているように見えます。しかし、この主の言葉には、その場所は永続する神の住まいではなかった、それゆえ実際神の箱はそこから失われることになった、ということが意味されています。荒野の時代幕屋は、「一時的に滞在する」(シャーカン)宿り場と呼ばれていました。シロへの滞在もまた暫定的なものでしかなかったということです。

主なる神は天地を創造された方として、特定の場所に結びつくことはなく、場所に関して自由であられます。場所に対して自由であるということは、神の本来的なあり方を示しています。唯一の神は特定の場所に縛られず、どこにでも自由にいまして、すべての世界を支配される方であることを示しています。のちの神殿祭儀における偶像化に対する預言者の批判は、この神学的な理解からなされています。新約聖書においても、神殿における神礼拝はやがて克服されるべきものとして語られています(ヨハネ4:21、使徒7:48-49,17:24)。ダビデは神殿を建てることを許されませんでしたが、後に神殿を建てることを許されたソロモンは、神殿奉献の祈りにおいて「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王上8:27)と、その信仰を表明しています。

このような神殿に対する神学的な思想はイスラエルに古くからありますが、ここで後の神殿の豪華な調度などが拒絶されていることは、預言者的な意味を持ちます。

主は、イスラエルを「わが子」として、常に共に歩み、牧者として導いてこられました。そして、主は、牧場で羊の番をしていたダビデを後ろからとって、イスラエルを導く牧者(王)とした、といわれます(8節)。主は幕屋に神の箱がない時も、ダビデと共にいて祝福してこられました。これからも、「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」(9節)といわれます。主がダビデと共におられるということは、王ダビデをいただくイスラエルはまた、主の臨在に与かり、祝福を受けるということが意味されていました。イスラエルの民は今や「一つ所を定め」そこに定住することを許され、侵略者から脅かされることなく「安らぎを与えられる」(11節)といわれます。

そして、ダビデに向かって、「主があなたのために家を興す」と約束されます。ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるとの約束が与えられているのであります。ダビデに与えられたこの約束は、その子孫がたとえ罪を犯し、主に裁かれるようなことがあっても、「その王国は揺るぎない」(12節)ものとされ、「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(16節)というものです。

ダビデ王朝の永続を約束する、主の約束は、「ダビデ契約」と呼ばれています。サウルは主の御言葉に聞き従わない罪のゆえに、その王位が退けられることになりましたが、ダビデ王朝は、未来の王が犯す罪は相応しいし方で罰せられることになるが、その王座が失われることがないという恵みが語られています。神は自分の子供を懲らしめる父親として厳しく臨むことはあっても、決して滅ぼさず永続させる、と約束されています。しかし、この約束は一方で、怠惰な安心感を持つダビデ王朝不滅の偶像信仰を生むことになりました。その偶像信仰に対し神は預言者を通して悔い改めを求める審判預言を繰り返し語らねばならなくなります。そして終に、前586年のエルサレム陥落とバビロン捕囚によって、この契約の偶像視に一つの鉄槌が加えられることになりました。

この挫折体験は、この約束をメシヤ預言として受けとめ、メシア待望の信仰を導くことになります。神が建てると言われる神の民の地上の王国の永続性の約束は、人間が神の為に住居を建てる代わりに、主ご自身が神の民のただ中に一つの人間の家系を選び、主ご自身の主権の担い手である家を建てる用意があると宣言しています。

しかし、この約束の成就は、神の御子であるイエスがダビデの子として生まれられる時まで待たねばなりません。ダビデの子として、キリストは人間の肉体の中に住居をもうけ、我々の間に「天幕」を張られました(ヨハネ1:14)。ご自分は粗末な家で良いというダビデに対するこの約束は、新約の光を当てて読む時、神の御子が貧しい人間性をとって、その間にあって住むという恩恵による約束を指し示してます。

ダビデの王国が栄えるのは、主がダビデといつも共にいるからです。ダビデに対する約束のゆえに、その子孫の罪にもかかわらず、主が共におられるからです。主が敵の手から守り、この民に平和を与えられるからです。主が天幕の貧しさをいとわず、貧しい羊飼いであったダビデを引き上げて王とし、レバノン杉の立派な王宮に住まうのを良しとされる、そこに大きな主の恵みが表されています。この自由な神の恵みによって、この都の土台は揺らぐことはなかったのです。この恩恵によってのみ、この王国は存続しえたのです。この王国はそれ以外のどのような力によっても、存続させることは不可能でありました。

それゆえこの王国の王も民も、この神の自由な恵みに感謝と賛美と喜びをもって生きることが許されます。預言者ナタンの告げるこれらの言葉を聞き、ダビデの心は大きな喜びと感謝で満たされました。

ダビデはその感謝と喜びを、「主の御前に出て座」して、祈りによって表しました(18節)。普通、ユダヤ人は、立って天に向かって手を上げて祈りをします。座したり、地面にひれ伏してする祈りは、特別な祈りをする時に限られます。それゆえ、この時のダビデの祈りは、神の約束に対する感謝に満ち溢れた心からの特別な祈りでありました。ダビデがこれまで体験したのは主の導きです。ダビデは自分が小さな人間でしかないことを知っています。この小さな人間に過ぎない者に、この家に遠い将来の秘密を明らかにし、垣間見せてくれる神に感謝します。この恩恵は、常に約束の御言葉と関連していることをダビデは知っていました。

この約束の確かさは、主の御言葉の真実(28節)に基づくものでありました。それゆえダビデは御言葉による祝福を求めます。ダビデのこの姿勢は、すべての主の前に生きる者の信仰のあり方を示しています。主の不変の約束と真実は、その約束の言葉に対する揺るぎない信仰をもって、ひれ伏して祈りつつ聞くダビデに与えられたのです。ダビデのような信仰をもって御言葉に聞こうとする者に、神はまたこの約束の祝福に与らせてくださいます。

ダビデ契約とこのダビデの祈りは、神の民の信仰のあり方を知る上で特別重要な意味を持っています。神の恩恵はただ御言葉の約束を通して明らかにされます。そして、神がその者と共におられ、神が貧しい天幕の中に住まわれて恩恵を与えつづけてくださるこの約束を心にとめて信仰に生きる民に、永遠の神のみ住まいは約束されます。イエス・キリストはその約束を成就されるためにこられた救い主です。このキリストへの待望信仰は、残念ながら、イスラエルがこのダビデに対するその王国の永続約束を誤解したため、バビロン捕囚という試練を経て初めて明確にされることになります。しかし、このダビデに対する約束は、イスラエルが挫折を経験した時、その原因が何であったのかを検証する重要な原点であり、祝福を受けたときは、何ゆえこのような喜びを味わい得るのかを教える原点でもありました。その意味でこの7章は神の民の信仰を考える上で非常に重要な位置を占めています。詩篇89:20~38は、ダビデ契約の本質を明らかにしていますので、併せて読むとよいでしょう。

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