イザヤ書講解

60.イザヤ書55章6-11節『高く超える主の道』

この箇所は第二イザヤの使信の結論部です。第二イザヤからこの言葉を聞いたのは、捕囚の地バビロンで、疲れ果てて、信仰についても懐疑的になり、将来について希望をもてない状態で生きていた人々です。第二イザヤは、、そのような疲れ果てた人、生きることに希望を持てず懐疑的になっている人々に向かって語りかけていますが、実は彼もまた時代の民と共に捕囚を経験し、同じように疲れ果て、将来に対して懐疑的にしか見ることのできない人でした。

しかしその彼がどうしてここで、「主を尋ね求めよ」と呼びかけることができたのでしょうか。それは彼がその時代を洞察し、状況を深く認識できるようになり、自身の信仰の力で主にある転換の希望を持てるようになったからではありません。時代の民と同じように疲れ果て、途方にくれて懐疑的に生きていた彼を立ち上がらせ、預言者にしたのは、彼の外側から呼びかけた主の言葉です。彼自身は、同じ時代の人々に呼びかける言葉をもっていなかったのです。彼が預言者として召しを受けたときの苦悩の言葉が40章6-7節に記されています。

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。

第二イザヤは、預言者として召された時、「呼びかけよ」という主の声を聞きました。しかし、彼は、現状に対しても将来に対しても懐疑的な民の心を知っていましたので、「何と呼びかけたらよいのか」と困惑し、彼は主に向かって口答えしていますす。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」といって、民の弱さ、はかなさ弱さを、野の草にたとえて語り、そんなはかなく弱い花のような存在に、風を吹き付けて倒し去ったのは、主ご自身ではないか、といって抗議しました。

しかしそんな懐疑的な彼に語られた主の言葉は、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40章8節)という言葉でありました。パレスチナの地では、冬雨が降り、春にいっぺんに花が咲き誇ります。しかし、夏になると熱風が吹き付け、美しく咲き誇るアネモネなどは、その熱風と共にもたらされる熱砂で一瞬にして枯れてしまいます。まだ命のみなぎる若い草花が一瞬にして枯れてしまう光景を思い描き、イスラエルは、まだそのような命のみなぎりを感じられていたのに、一瞬のうちに枯れてしまうアネモネのように、「主の風」によって「散果て、枯れる」経験をしました。預言者は、イスラエルをそのように扱った主が、今になってなぜ、自ら滅ぼしたこの民に「呼びかけよ」というのかと抗議しました。

しかし、イスラエルをそのような風でほろぼしたのが、自然に発生した風ではなく、主の審判としての風であるなら、その滅びの現実から希望ある未来に転換させる力もまた主なる神によってもたらされねばならない、そうでなければ本当の希望、命の回復は望めません。風が吹きつければ一瞬にして散り、枯れ果てるような存在でしかない人間に語りかける神の言葉は、その人間に「とこしえに立つ」働きをすると告げられ、彼は預言者として立てたのであります。

アモスは、「主を求めよ、そして生きよ」(アモス5:6)と語りましたが、第二イザヤは同じように「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ。近くいますうちに。」(55章6節)と告げています。イスラエルの民は、エルサレムの神殿で、供え物をささげ祈りをもって神に近づくことができました。しかし、バビロンにはそのような神殿はありません。だから、動物を犠牲にして捧げ物をささげる祭儀を行うことができません。それ故、神が「近くにいます」という実感を持つことはできないとイスラエルの人々は、考えていたかもしれません。しかし、神の近さを知るのは、そのような場所、礼拝の形式の問題でしょうか。神はその形式によって、場所によって、「近くある」ことに制限を受ける方でありません。

イスラエルは、主に従う信仰の欠如の故に、現在の悲惨さを経験していました。エルサレムの神殿で礼拝が守られ、目に見える近さで神を実感できる状況に置かれていた時に、イスラエルの信仰は、神に近くあるものとして相応しく生きていなかったのです。とこしえに立つ神の言葉に聞き、その力によって生かされることを信じている者としての歩みをしていなかったのです。主の近さは、物理的な距離、限界の問題ではありません。主の言葉、その呼びかけに聞き、応答するということで、彼らは主と遠い関係で生きていました。

捕囚は第二イザヤにとって、神殿という物理的に造り出された主の近さを味わいながら、主の言葉に聞き従わず、主と遠い関係に生きていたイスラエルに下された主の審判でありました。問題は、民がその事実をどう認めて、どのようにそこから立ち上がることができるか、というところにあります。

しかし、古代人の考えにおいて、神がご自分の民の敗北において神であることを証明することはありえない、というのが一般的な理解でありました。イスラエルの民の多くの者もまたそのような考えに縛られていました。

しかし、神は、民になおご自身が神であると呼びかけておられます。そして、赦しを語り、立ち返るよう呼びかけておられます。イザヤ書40章3節には、この預言者に示された主の声は、

主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

というものであったと記されています。何も育たない、不毛の荒野に、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言者は語っています。荒野に通さねばならないのは、自分の道ではなく、「主のための道」です。

そしてここで、第二イザヤは、55章8-9節で、

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

と語っています。ここで言う「思い」というのは、「計画」の意味です。「道」はその「計画」が実行に移される方法、手段のことです。「人の思い」は、他の神々の地で支配されたままにしている神は無力で当てにならないという不信仰に結びついていました。それ故、バビロン捕囚で危機に直面していたのは、人の思いとしての信仰ではなく、神の言葉であり、言葉を実現し、言葉と共に働く神ご自身でありました。神の言葉に対する信仰が危機に直面していました。

しかし、ここで語りかけておられる神は、世界を創造し、イスラエルを奴隷の地エジプトから導き出し救い出した方です。この神が今や贖いの神として、バビロンの地においても顕れる。それは、人の思いと異なる、それよりはるかに高く超える言葉をもって語りかける、これが「わたしの思い」として示される、主の思い、即ち、主のご計画です。

私たちを絶望、疲労感、無気力、懐疑から立ち上がらせるのは、そのような状態にあっても、なお、語りかけ、その状況を変えることのできる主の言葉です。

天からの雨は、大地を潤し、豊かな実りをもたらします。種を蒔く人の労苦は、この天からの雨で報われます。食べるものは、この天からの雨によって糧を得ることができます。主の御言葉、主の口から出る御言葉の力は、そのような天からの雨に譬えられて、

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

主の言葉は、語られるだけでなく、語られたことが主の意思として成就すると言われています。私たちの救いの確かさは、私たちの信仰の強さに依存するものでありません。語られる主の確かさ、その言葉の確かさに基づきます。しかし信仰を通路として神の恵みは働きます。だから、「主を尋ね求めよ」というこの預言者の言葉に耳を傾けることが大切です。

主に耳を傾け、主の言葉を信じ、そこに委ねる人を通し、主は、その望むところを果たされる方です。主の思いは、私たちの思いを超えてどこまでも高い、と語るイザヤの預言がそのまま実現したかというと、この時代の民はイザヤの言うようにそのままのその実現を見たわけでありません。しかし、そこにまた人の思いと異なる、時、方法を選ばれ、その思いを超えて実現される主の計画を信じつづける信仰を、この言葉に聞く者すべてに求められています。

新約聖書はその成就を、主イエスにおいて見ています。人の思いを超える主の思い、主の道をいつも思い、その思い(計画)、道を示される主の言葉を聞き、信じる信仰を、主は私たちに求めておられます。

旧約聖書講解