ホセア書講解

25.ホセア書13章1-11節『すぐに消えうせる露』

ここに記されているは、エフライムの終わりを告げる預言詩である。12章15節のエフライムに対する威嚇の言葉に続いて、エフライムの終わりが歌われている。内容的には、三つの部分に分かれている。1-3節は、神々と偶像礼拝について、4-8節は、牧者ヤーウェとその審きについて、9-11節は、ヤーウェの怒りによって取り戻される王国について語っている。ホセアは、この詩において、民の歴史的発展を回顧し、堕落と審きの原因を明らかにする。

さて、1節は全体の主題が語られている。エフライムは、イスラエル12部族の中で、首位を占める指導的部族であった。カナン占領の時は、エフライム族のヨシュアが指揮をとり、エフライムの首都シケムには全部族が集まった(ヨシュア24:1)。分裂後の北イスラエル王国は、エフライム族が首位を占めた。初代の王ヤロブアム1世は、エフライム族であった。その言葉は、部族連合の中で尊重され、恐れられ、誰もこれに敢えて反抗しようとする者はなかった。ところが、エフライムの卓越した立場は、バアルに傾いたためにそれを失い、その結果、死にゆく民となった、とホセアは語る。ホセアは、エフライムの罪と、その結果としての死について語ることによって、民の生活にも妥当する、内的法則を要約している。死は、罪の報いである、というのである。ホセアは、このように、背信と破滅との間の内的関連を強調している。ホセアにとって真の生とは、神との生きた人格的連なりに基づいていたのである。

このような、生の連なりを破棄する者は必ず死ぬ、という預言者にとって自明の確信に立って、ホセアはこれを語る。しかし、当時の人々にとってバアルは、生命とその繁殖力の神であったので、バアル礼拝が民に死をもたらすなどということは、とんでもないと感じられたに違いない。

ホセアは、偶像礼拝を取り上げて、そこに見られる罪の本質を指摘する。それは、神に背き、真の神をうち捨てて顧みない行為であった。真の神を打ち捨て顧みない人間は、どのようにして自己批判の基準を失い、また一切の生のあり方と関係を愚かしく昏迷させていくものかを、民に示している。

ヤーウェ宗教の本質は、唯一の神以外を神としてはならないという、排他性にある。それは、偶像の禁止によって徹底され、これを犯す者は、ヤーウェを否む者として呪いが明らかにされていた(出エ20:4,34:17)。ヤーウェ宗教の霊的な性格は、このようにして明らかにされていたが、人々はこれに逆らい、カナンの偶像にならなって銀を鋳てヤーウェの像を造った。それは、この王国の歴史の始めからなされたいたことである。ヤロブアム1世は、ベテルとダンの聖所に、カナンの動物神の姿でヤーウェを現すものを立てた(列王上12:26以下)。ホセアは、このような似非宗教の本質を、覚めた目で暴き出す。ホセアは、これらがみなヤーウェ宗教に固有なものではなく、外国の手本を真似て、人の手で作ったものであることを指摘して、それらの像から呪術の力を剥ぎ取る。後の第二イザヤは、同じ観点から偶像批判を行なっている(イザヤ40:19-20,44:9以下)。

罪は、神聖感覚の欠如の結果であり、罪は、神聖感覚を腐敗させる。神への正常な感覚を失った者だけが、このような人の作った物を「神」と呼ぶことができる。その結果、偶像に人間が供犠にされたり、「子牛に口付け」するような祭儀的習慣に陥ることになる。そこで民は、神を特殊な方法で扱えるもの、と考えるに至る。そのような考えの下では、神の尊厳さも、人間の尊厳も捨て去られ、判断力と秩序とは完全に逆立ちしたものとなってしまう、ということにさえ気づかなくなってしまう。人間性の回復、真の人間の尊厳は、神を我が物とする試みによって獲得できない。それは、ただ真の神に対する畏敬と服従によってのみ与えられる。歪んだ宗教性と神観とは、歪んだ人間性しかもたらさないことを、ホセアは指摘する。

ホセアの目には、偶像=背教(ヤーウェに対する)の罪は、自らを貶め、ヤーウェの民としての尊厳を放棄することにほかならなかった。既に、この罪そのもののうちに、神の審きが働き始めている。その結末は、完全な滅びであり、死であって、ホセアは、それをすぐに消えてなくなる「朝霧」、「朝露」の比喩で説明している。

偶像崇拝とは、結局のところ神を誤認することであり、否認することである。

ホセアは4節において、真の神ヤーウェを誤認し否認する民に向かって、「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った」という主の言葉を告げる。こうして主はみずからが誰であるかを示し、イスラエルにとっていかなるお方であるかを厳かに示す。ホセアは出エジプト以来イスラエルの神であるヤーウェの本質が啓示され続けてきたことを示す。

4節3行目の「認めてはならない」は、正確には「知らない」である。主語の「あなたは」が、翻訳には省略されている。「あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかにあなたを救うものはない」関係は、出エジプト以来の、神とイスラエルの本質的な関係であった。ヤーウェは、この関係に対する自らの愛と誠実をイスラエルに現したのであり、イスラエルは信頼と服従をもって仕えるものであることによって、ヤーウェの民としての真実を尽くすことができた。この反駁の余地のない実践的唯一神論こそ、あらゆる宗教批判のよりどころである。また、イスラエルにとって、救済を訴える特権・権利ともなり得たのである。

「あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかにあなたを救うものはない」というこの言葉は、ダンとベテルの像が、イスラエルをエジプトから導いてきた神を現している、という列王記上12章28節に述べられている信仰に対して向けられた批判であり、あらゆる不明朗な宗教的混交を拒否する言葉である。神の助けが排他的であるということは、そこに神を神としてもっぱら認め、崇めるという、神の排他性の要求がある。

ホセアは、ここでも「荒野時代」における神と民との理想の時代を回顧する(12:10参照)。乾ききった大地で、イスラエルを養ったのはヤーウェであり、これは、イスラエルを養う神の奇跡行為を強調している。この関係において、ヤーウェとイスラエルの関係の本質があることを覚えよ、との御言葉がここにある。

しかし、養われた民は、神の助けを称えず、ひたすら神を頼りとすることをせず、満ち足り、高慢になっていた。民は、カナンにおいて、もはや神の助けへの飢餓感を知らず、繁栄のうちに鈍感になり、自分の神を忘れるほど高慢になっていた。イスラエルは、カナンにおける文化に触れ、繁栄をもたらしたのがヤーウェであることを忘れた(2:10)。そして、カナン人が神を自らの利益のために操るように、偶像によって神を自由に操れる、という高慢に陥っていった。文化の発展は、それ自体悪でない。しかし、その発展に酔いしれる者は、高慢にも、神なしに自ら繁栄できると錯覚する。また、神をもその繁栄に用いる手段として扱う。バアル宗教の本質は、そこにあった。神から自らを解放する試みと、バアル宗教に見られる神利用とは、コインの両面の関係にある。そこには、真実の神の言葉に聞くという真の敬虔はなく、自己の願望の実現のための神しか要請しない、人間の驚くべき高慢がある。

だからホセアは、7-8節において、イスラエルの真の牧者ヤーウェの審きを、血に飢えた猛獣の凄まじい攻撃と、子を奪われた母熊の凄まじい怒りの本能に喩えて告げる。これらの譬によって明らかにされているのは、神の欺かれた愛の、生き生きした印象である。そこには、預言者自身の苦い体験もまた投影されている。ホセアは、「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか」(11:8)という愛を語る預言者である。しかし、その愛は、神の本質を曖昧にした愛でない。人間の理解を絶する深い愛、その繊細な優しさは、それと同時に、厳しい審きとの対比の中で語られている。預言者たちは、神の愛について語る時、それは同時に、人間が縮み上がるような審きの神を見ている。このことを背景にしてはじめて、神の愛はその偉大さと、そして、民がもはや逃げることのできない真剣さとを表す。

この神が審きに向かわれる時、助けへの希望はことごとく消滅する。

9節の言葉は、その事を徹底して明らかにする。その愛を受け続けた者が、背き続ける罪は重い。「わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ」という悲しみに満ちた主の言葉は、重くイスラエルの上にのしかかる。民は、審きにおいてはじめて、神なくしては、いかなる助け手もないことを知らされる。「お前の助けであるわたしに背いたからだ」という言葉の意味の重さを、審きにおいて知る。しかし、それは苦い体験であった。

この審きは、皮肉にも、地上の助け手として希望した王が、打ち砕かれることによって実現する。人々が希望をおいていた王とその高官たちとは、一体何を意味していたのだろうか。10節の言葉には、預言者ホセアの鋭い問いかけがある。イスラエルは、既に最初の王サウルに人間の力への希望を置いていた。ホセアは、王を欲するところに、既に、唯一の助け手であるヤーウェへの不信があることを認めていたのである。

だからホセアには、王国全体について、神から怒りをもって与えられた、というネガティブな評価しか与えない。そのような王国は、はじめから、憤りをもって取り去られる、としか考えようがない、というのである。ホセアにとって、このような王国の歴史は、同時に神の審きの歴史でもある。しかし、そのことによって、王国の責任を免責しようとしているのでない。ホセアが現実に見たイスラエル王国の歴史は、クーデターによる王権交代、強国の狭間にあり滅亡の危機におびえる哀れな姿、であった。しかし、そのイスラエルの数奇に満ちた歴史の道筋を支配しているのは、クーデターによって誕生した王でも、強国の王でもない。ただ神のみ、である。ヤーウェが王と高官を与え、また、再び取り去りたもうことによって、絶対の主であることを示されるのである。

そして、そのようにヤーウェが歴史を支配し導かれるのであれば、また、現実の悲惨は、イスラエルが主を忘れ、主に背いた罪に対する主の審きであり、その結果としてのエフライムの終わりである。このことを徹底的に示すこの預言詩は、再生の道が一つしかないことを、同時に示している。それは、4節の言葉を、イスラエルが再び覚える以外にない、ということである。

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