詩編講解

45.詩編91篇 『神の守りの中に』

この詩は46篇と並んで、神信頼に生きる信仰の力強さを証しする詩です。形式上この詩は二つの部分に分けることができます。

1-13節では、神のもとに隠れ家を見出し、神に信頼するものは、どんな危険の中でも神に守られ、堅く立ち得る、と約束しています。
14-16節は、神ご自身の保証の言葉でこの約束を確認し裏付けています。

1-2節は、神信頼に生きる者の信仰告白の言葉ではじめられています。
神に信頼する者が人生のあらゆる困窮と脅威の中で、救い、守り、力づけたもう神の力を自分の肌で感じることを許されているという、生ける神の救いの告白が冒頭において声高らかになされています。

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る」(1節)とは、神殿に滞在することが念頭におかれています。神に全幅の信頼を寄せて、神殿での礼拝を守る者に与えられる神の守りの確かさへの信仰の実感が2節の告白を生んでいます。神信頼に生きる信仰者は、神を救いの神として信じ告白しているのであります。神は神であるゆえに、揺るぎない信頼を寄せるべき方であり、どんな困窮のときも助けることが出来るお方である、これが彼の信仰であります。

4節は、聖なる神が神の臨在を証しする証しの箱のうえに臨在したもう神を指し示す言葉であります。母鳥が翼を広げて雛鳥を守るように、神は、信仰をもってご自分に近づく者を、あらゆる危険の中で覆い守られる。神は神に信頼を寄せる者を裏切らず守られる。神が彼を守る武器はご自身の真実であります。人間の武器は破壊されることがあっても、神の真実は破られることがありません。敵に打ち勝つ信仰の防御は、人間の勇気や決断力に存するのではなく、常に変わらない神の真実なご意思にあります。この神の真実を信じ、信仰の戦いの盾とする信仰者は、あらゆる戦いに打ち勝つ力をそこから得ることが出来るのであります。

5、6節において、夜の危険と昼の危険が交互に語られています。悪魔の力は闇の夜だけを支配し、日中は働くことが出来ないのではありません。疫病は、夜、人の体を蝕むだけではありません。真昼の太陽は、その病原菌を孵化させる働きさえる。不気味な力を発揮する病原菌といえども、神を信頼する者には、神の守りの中にあることを信じることが出来るので恐れることはない、と告白されています。

7節は、恐らくペストのような比類なき疫病によって、一度に多数の死者が出た時のことが比喩として語られているのでしょう。傍らにばたばたと倒れ死ぬものを見て動揺しないものはいません。今日生きていても、明日は自分が死ぬのではないかという恐怖感は、それを眺める者の心に強く襲いかかります。それは、戦争や地震の場合でも同じです。その現実を人間的に見ていくならば絶望しかありません。

しかし、信仰をもって、神を見上げ、そこから事態を眺めるとき、そこにも守ることの出来る神の御手を見ることが出来ます。信仰においては、不可能は可能となります。人間には不可能でも神には可能だからであります。「全能の神に宿る」信仰とは、こうした苦難のときにこそ揺るぎない姿を現します。

しかし、この全能の神に宿る信仰は、自分の手のひらに神を乗せ、自分の願望のために持ち運びできるものではありません。しばしば、旧約の信仰者たちは異教徒たちのように、持ち運びできる守護神を持つ誘惑に負けました。この点で、11~13節が新約聖書に引用されていることも注目すべきことであります。悪魔は荒野でイエスに現れ、高い山の頂きに立たせ、この御言葉を引用し、ここから飛び下りてみよといって誘惑しました(ルカ4:10,11、マタイ4:6)。神が本当に全能の神であるなら、その試みに神が答えられるはずだといって誘惑したのであります。

イエスは、ここに危険な誘惑があることを直ちに察知されました。神を信頼する者の信仰は、神はどんな危険なときにも守る方であるということを信じきることであります。しかし、あえて自分で危険な場所に出かけて神に挑戦するのは、信仰ではなく、神を魔術のために用いる逆立ちした信仰であります。イエスは荒野での悪魔の誘惑を、聖書の御言葉を正しく引用することによって退けられました。聖書に聞くというだけでは、正しい神信頼に生きる信仰であると言い切ることができません。自分の都合で聞き、そのために神を利用するのでなく、都合の悪いときも、神の約束の真実を疑わずに信じきり委ねきるのが、神の前における真実な信仰であります。

そうするとき、私たちの最大の敵である悪魔の誘惑に勝利する信仰そのものが与えられるのであります。

「獅子と毒蛇」は、恐るべき敵を表すしるしであります。私たちの命を奪い、神との正しい関係に生きることから私たちを引き離す恐るべき力を持つものとして存在しているのであります。しかし、本当に神に信頼して生きる者に、それを踏みにじる力と勇気そのものが神によって与えられるというのであります。それは、まさに主イエスが神を試みるためでなく、神に信頼し、御言葉に聞くことによって勝利されたように、私たちにも与えられる勝利であります。

14-16節は、神を信頼するものに与えられる神御自身の語られる素晴らしい約束の言葉であります。神はご自分を信頼し慕う者を災いから守り、御名を崇め畏れ敬う者を高く上げるといわれるのであります。苦難のとき絶えずそのものと共にいて、名誉を与えるといわれるのであります。生涯、神の祝福と喜びで満ち足らせ、救いを見させるというのであります。

ここで教えられているのは、どのような試練の中においても、誘惑するものを前にしても、神のみ言葉を信じその事態に立ち向かう者に与えられる神の救いの確かさであり、その確かさを確信する信仰の確かさであります。

旧約聖書講解