士師記講解

18.士師記18章1-31節『ダン族の偶像礼拝の罪』

17章において、ミカの家における偶像崇拝の罪がどのようにして起こったかについて、学びました。神礼拝の私物化と自己願望化の結果として、必然的に起こるという事実を学びました。

17章6節の御言葉は、「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」と語りますが、イスラエルの混乱と無力は王の不在が原因でありません。契約において真実を果たされる真の神、主を王として、その主の下に一致した交わりと結合を保とうとしない、個々ばらばらな利己主義と部族主義の自分勝手な信仰の持ち方が、イスラエルの混乱と無力の根本的な原因でした。

18章のはじめにも、もう一度、「イスラエルに王がなかった」ことが、強調されていますが、あまりこの言葉にとらわれすぎない方がよいと思います。この章の理解においてはダン族の偶像崇拝の罪のもたらす危険を見ることが重要です。ヨシュア記19:40以下によりますと、ダン族はヨシュアの時代に、ユダに近い西の方に相続地として割り当てられていました。しかし、アモリ人が彼らの背後から圧迫していたので、自分たちの住むべき地を求めていました。ヨシュアがカナンの地を斥候として偵察したように、ダン族も5人のスパイを派遣致しました。

遣わされた5人のスパイはミカの家に立ち寄り、そこでミカの雇った祭司と会い、彼に旅の成功を占ってもらいました。祭司は平安を語り、5人はライシュに着き、住民が平和に暮らし、平穏で安心しきっている様子を見、またこの地には足りないものがないことに満足し、攻め易しと確信致しました。そのように、身内の者たちにも報告致しました。この報告は、ヨシュアが行ったものと著しい対照を示しています。

彼らの心にあったのは、信仰の判断ではなくて世俗の人間的な力の論理によるものです。力の強いものは、平和に暮らしている者が寝静まっているときに攻め取ってもよいという、人権を無視した驚くべき不道徳と罪が見られます。
ダン族はこの五人のスパイの報告を下にして六百人の武器を持った兵士で、ライシュの町を攻め取ることを計画致しました。最初にライシュの町を偵察したときに、五人のスパイ達はミカの家を尋ねたことを思い出して、ミカの家に仕えるレビ人の祭司とミカの所有するエフォドとテラフィムとを盗みました。かの五人は、祭司の口を封じ、ミカの家の祭司ではなく、自分たちの氏族の祭司にしようとレビ人の祭司を誘惑致しました。特定の国家や地方と結びつく祭司の働きは、言論の自由を犠牲にし、権力の悪に奉仕する堕落の道を歩みます。戦時下において成立した宗教団体法は、諸宗教の祭司権能を国家のレベルにおいて統合し、国家の都合のいいようにのみ発言させ、真の言論と宗教の固有な独立を認めませんでした。ダン族の行為は、正に権力による宗教の収奪であり、ご都合主義の利用です。この祭司は元々、個人に私物化される道を自ら容認する人でありましたので、平気でミカの家から、ダン族へ移りました。権力に近づき、「祭司はこれを快く受け入れ」(20節)たと言われています。

そこには、御言葉に忠実であろうとする真の祭司職の毅然とした態度はどこにも見られません。権力と結びつく宗教は必ず腐敗堕落しその偶像化への道は更に酷くなります。祭司と自分の造った神々がダン族によって、奪われたことを知ったミカは、取り戻そうとダン族を追いかけますが、そうするなら自分の命も家族の命もないと脅されて、自分の家に帰りました。

ミカが信じ頼りにしている神が本当の神であれば、ミカはその神により頼んで命を保たれたはずです。たとえそうでなくても、その神のために戦えたはずです。しかし、ミカの信じた神は手で造った命のない神です。彼自身がその神に期待できないことに、気づかされるほかありませんでした。自分のために神を持つものは、神のために生きる真の自由を知りません。ダン族はミカの家にあったこの無力な神を奪い、祭司を奪い、自分たちの神とし、自分たちの祭司としました。この宗教における不道徳と罪は、彼らのカナン征服の戦いにおいても低い倫理と身勝手な論理がまかり通らせようとする驚くべき姿を呈しています。平和に安心しきっている民の寝込みを襲う侵略行為によって、収奪する行為が成功すれば、宗教の名においてなされているだけに、止めどなく正当化され、他を犠牲にした自分たちだけ良ければよいという独りよがりなナショナリズムの温床となります。

権力と結びついたこうした偶像宗教の危険は、私物化された自己願望の投影の組織化であるだけに、一国家や一地方の利益と繁栄しか考えない全体主義へ向かいます。それは人間を解放する自由を与えるものでは勿論あり得ません。宗教の名のもとに、そこにいる民もやがては圧迫されていきます。イスラエルの歴史がその事を語っています。わたしたちの国においても、現在においてもなお存在する伊勢神宮参拝や靖国神社参拝に見られる国家的為政者の大きな罪を見落としてはなりません。そのような宗教は一時的に繁栄することがあります。しかし、やがて神の審判の下に立たされたとき、滅びます。この祭司職は、モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫によって、捕囚の日まで受け継がれたと語られます。つまり、この祭司職はその時点で滅びたということです。

神はそのようにして審くことによって、また救いをもたらせるお方です。神は何処までもご自身の契約に誠実であられます。人間の側の不誠実とその罪にもかかわらず、神は何処までも誠実に忍耐されています。ここにわたしたちの救いがあります。真の神を神として崇めないもののために、御子を与え神はその愛と大きな忍耐を明らかにしておられます。

旧約聖書講解