サムエル記講解

27.サムエル記上26章1-25節『ダビデ再びサウルを寛大に扱う』

本章の物語は、24章の物語と非常によく似た内容ですが、別の出来事です。24章は、ダビデを追ってエン・ゲディにやって来たサウルが用を足すために入った洞窟の奥にダビデがいて、偶然にもサウルの命を自由にする機会が巡ってきたことが記されていますが、本章では、サウルが追って来たことを知ったダビデの方からサウルの眠っているところに乗り込んで、彼の命を自由にできるチャンスを自ら造り出したという点で、大きな違いがあります。

前回サウルは、ジフ人から「ハキラの丘に」ダビデがいるとの密告を受け、ダビデを追跡しましたが、あと一歩のところで、ペリシテ人が国に侵入して来たとの知らせが入り、追跡を断念しなければなりませんでした(23:19以下)。ここでもジフ人から同じように密告を受け、精鋭三千を率いて、ジフの荒野に下ってきて、ハキラの丘に陣を敷いています。

サウルが追ってきたことを知ったダビデは、斥候を出してその事実を確かめました。斥候は、サウルとサウルの軍の司令長官、ネルの子アブネル(ネルはサウルの父キシュの兄弟、したがってアブネルはサウルの従兄弟)が寝ている場所をつきとめ、それをダビデに報告しました。この報告を聞いたダビデは、サウルが捕らえに来る前にすばやく行動を開始することを決意します。

ダビデはヘト人アヒメレクとアビシャイに、「サウルの陣地に、わたしと下って行くのは誰だ」といって呼びかけました。

ヘト人というのは、ヒッタイト人のことで、カナン人、アモリ人と並んでしばしば言及されるカナン先住民の一つです。ヒッタイトは早い時期から鉄器文化を持ち、馬と戦車による戦術にたけ、前18―12世紀に小アジア(現在のトルコ)と北シリアを支配して帝国を築いたが、イスラエルのカナン登場以前に解体していました。ダビデのもとには多くの外国人が集まり、ダビデは彼らを傭兵として雇い、その優れた軍事技術を十分に活用したと思われます。ダビデの身の回りを固めた兵士たちは、単なる生活困窮者や不満分子の集まりではなかったということです。アヒメレクはそうした外国人勇士の一人でありました。後にダビデに妻を奪われることになるウリヤもヘト人です(下2:3)。アヒメレクという名は、「わが兄弟は王なり」という意味をもつヘブライ名で、ウリヤと同じく、外国出身者でありましたが、ヘブライ名で呼ばれていました。彼らがダビデのもとで重んじられていたことを示す証拠としてみなしてよいでしょう。

アビシャイの方は正真正銘の剛勇士でありました。しかも彼は、ダビデのかなり年長の姉ツェルヤ(歴代上2:16)の子で、したがってダビデとは従兄弟でありました。彼はヨアブとアサエルの兄弟で、彼らは何れもその母ツェルヤの子と呼ばれています。それは、父が早くに死んだからか(下2:32)、彼らの母がダビデの親族として非常に重要視されていたからか何れかであると思われます。

ダビデの呼びかけに呼応したのは、アビシャイの方でありました。

ダビデは夜まで待ち、サウルとその兵士たちが寝静まった時に、アビシャイを連れてサウルが眠っている幕営の中に忍び込むことに成功しました。サウルは深く眠りこんでおり、サウルに身辺を警備すべき、アブネルも兵士たちも眠りこんでいました。アビシャイは、エン・ゲディの洞窟でダビデの兵士たちが言ったのと同じように、これは神が与えてくれたチャンスであると考え、ダビデにむかって、「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」といいました。

しかし、ダビデはエン・ゲディの洞窟の時と同じように、主が油注がれた方に手をかけてはならないといって、この申し出をきっぱりと退けました。そして、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう」(11-12節)といって、サウルの枕もとにあるサウルの「槍と水差し」だけを持ち帰りました。

ダビデがこの言葉において表明したのは、主の計画に対する揺るぎ無い信仰です。主の油注ぎに表された主の御旨は、人によって破ることの許されない絶対的なものであるという服従の信仰です。歴史を切り開くのに人間の力が用いられるにせよ、人間主導の力によって切り開かれ、作られるべきではなく、あくまでもいと高き方の手がそれを形成すべきであるという信仰です。ダビデは自分が神の道具であることを知っていました。しかし、単なる道具以上のものではないし、彼自身それ以上のものになろうと思っていません。人は神の歴史支配、即ち摂理に委ねて生きる信仰の大切さを強調したのです。そして、「主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」と、サウルの運命を預言者的語っています。

結局ダビデと一緒に行ったアビシャイは何の武勇を振るう機会も与えられていません。それでは、彼は何の為にダビデに呼応して従っていったのか、分けのわからない感じがします。物語全体の流れからすると、彼の参加は、神の歴史支配に委ねるダビデの信仰をそらせ、自力による解決をはからせるよう唆す悪魔的な誘惑者としての役割しか与えられていな印象を受けます。ダビデの意図は勿論そんなところにはなかったでしょう。しかし、サムエル記の記者は、そのような役割を果たした彼の言動を記し、ダビデの信仰を際立たせています。

そして、ダビデの信仰と呼応するように、この時のサウルと彼を守るべくいたはずのアブネルやその兵士たちの深い眠りを、「主から送られた深い眠り」(12節)と説明することにより、これらの事態の背後に主の歴史支配と導きのあることを明らかにしています。神は、男から女を創造するため、アダムを深い眠りにつかせられました(創2:21)。また、アブラハムが契約を与えられた時、深い眠りの中に置かれました(創15:12)。このように深い眠りは、神がイニシアチブを取って重要な行為をされる時の支配を表すものでありました。ダビデがことをうまく運ぶことができたのは、彼の周到な準備と判断力の正しさにあったのではなく、なによりも彼が主に守られ、主の主導によってなされたことが強調されています。

サウルの「槍と水差し」には特別な意味がありました。サウルは自分の槍を常に手から離さずにもっていました(18:10,19:9)。それがダビデに奪われたということは、サウルの王としての事実上の権威の失墜を意味していました。「水差し」は旅行者や出陣中の兵士たちが用いるために身につけていた「水筒」のことで、槍と同じく軍人の必携品でありました。槍だけでなく大事な水筒までダビデに奪われたことは、二重に王の権威の失墜を表すものとして言及されています。

ダビデはこの大事な「槍と水差し」持ち去り、遠く隔たった山の頂きに立ち、まだ日が明けず、サウルとその兵士たちがまだ寝静まっている時に、大声でその兵士たちに呼ばわり、自分の主人である王を十分に警護せず、王の大切な「槍と水差し」が盗まれた彼らの非を暴露しました。

その声を聞き、その声の主がダビデであること最初に気づいたのは、サウルでありました。サウルは、「この声は、わが子、ダビデではないか」と言って返答し、ダビデはこの機会を利用し、サウルの行っている追跡の企ての無意味さを訴えました。

もし神がサウルを動かして(サウルの狂乱は主から送られた霊によることが16:14以来指摘されている)ダビデに立ち向かわせているなら、その怒りは正しい祭儀の執行によりなだめられる必要がある。しかし、それが人間によって引き起こされたものであるなら、その人が主に呪われ災いを下されることになる。ダビデはこう述べて、主の御心に逆らい得ない人間の運命に対する信仰の問題を明らかにしました。

そして、ダビデは、サウルの執拗な追跡が続けば、主の民の住む国の領土から自分が立ち去らざるを得ない現実を明らかにします。そうなれば、外国に逃れて、まことの神ヤハウエから離れて、「他の神々に仕える」ことを余儀なくされる地へ追いやられることになるといいます。サウルがそういういとを理解していなくても、その行為は、「『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払う」ものとなることを明らかにします。このダビデの考えは、主の支配が主に選ばれた民の領土にしか及ばないという限定されたものとして理解されているように思えますが、ダビデの真意はそういうところにはありません。

しかし、現実には、そのような扱いを受けると、まことの神との真実な交わりを民と共にすることが困難になります。イスラエルの選びの信仰において非常に大切なのは、神礼拝と信仰は個人として保たれれればそれでよいというものではなく、民(ラオス)として一つになって礼拝(レイトルギア「民のつとめ」)を共に守ることです。それを不可能にし、孤独のうちに生きねばならないように民を追いやることは、主の油注ぎを受けた王として許されるべきことでないと、サウルの責任をダビデは問うのであります。

ダビデはサウルからそのような扱いを受けている現実を、山で追われるしゃこや、蚤にたとえて訴えています。しゃこはパレスチナの荒地の岩場に住むキジ科の山鳥で、からだは灰茶色で保護色をしていました。ヘブル語で「コーレー」と言い、文字通りには、「呼ぶ者」という意味があります。ダビデは、荒野を逃げ回りながら、サウルたちに大声で呼びかけている(14節)自分の姿は、しゃこのようだと非肉をこめて語っています。また蚤一匹をひねりつぶすように軽く扱われていると訴えています。

このダビデの訴えを聞いたサウルは、ダビデの正しさを認め自分の非を認め、ダビデに帰ってくるように呼びかけ、二度とダビデにそのような仕打ちをしないと約束しています。しかし、ダビデはこの王の言葉を信じて、サウルの宮廷に戻るとは言わず、王の槍の返還をするから、従者を一人よこしてほしいと答えるだけです。

そしてダビデは、主の正しき者への公平な報いに対する信仰から、正しき者として振舞った自分に対する主の加護が今後期待できるという確信を表明しました。これは単にその信仰の表明にとどまるものではなく、主への嘆願でもありました。このダビデの言葉を聞き、ここでもサウルはダビデの正しさを認め、主の祝福を語らずにはおれませんでした。

しかし、このあとダビデはサウルの宮廷に戻ることはありませんでした。ダビデは自分の道へ行き、サウルは自分の場所に戻ったことを示し、この章は終わっています。このあとダビデはどうなるか、次章を見ますとダビデは異邦人の地へわたっています。またも心変わりして追ってくるであろうサウルの行動をダビデは冷静に見ぬいての行動でありました。それは19節において語った言葉が、後のダビデ自身の行動を預言的に示すものであったことを明らかにするようになされました。このため、サウルは二度とダビデを追うことができなくなり(27:4)、その後、ダビデとサウルは二度と相まみゆることはありませんでした。それでダビデはサウルの追跡を免れることができましたが、ダビデがここで表明した未来に向かっての目標の道(23-24節)は、指しあたっては遠ざかることになります。この道を確実にするのは、ダビデではなく主であることを、ダビデは、自身自ら練った窮余の策の挫折を味わって、それを知らされることになります。イスラエルの王国を確かにするのは、サウルでも、ダビデでもなく、主であることをサムエル記は徹底して語っています。

旧約聖書講解