エレミヤ書講解

56.エレミヤ書38章1-28節『二つの道』

私たちの人生には、しばしばどちらの道を歩むべきか選択が迫られることがあります。主の民としての選択は、常に、主の言葉に聞き従うか、従わないかのいずれかしかありません。人はそれぞれ置かれた状況の中でその決断を迫られます。その歩むべき道を示すのが御言葉です。それを指し示す預言者の言葉は、その意味でいつも私たちに決断を促す言葉として迫ってきます。ゼデキヤ王にとって、その決断は常に預言者エレミヤの言葉をどう聞くかということで問われることになりましたが、38章は、ゼデキヤが、その最後の決断の機会にも、ついに主の言葉に聞かず、主の審きを受けることが不可避となったことを明らかにしています。

エレミヤは、ゼデキヤ王の監視の庭に拘留されている時も、これまでと変わらず、カルデア(バビロン)軍によって下される主の審きを告げていました。この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される(2-3節)、これがエレミヤの告げた主の御旨です。

このエレミヤの言葉を聞きつけた反バビロン派の政府の高官たちは、ゼデキヤ王のところにやって来て、エレミヤが「兵士と民衆の士気を挫き」、「平和を願わず災いを望んでいる」といって、エレミヤを死刑にするよう求めました。

もともとバビロン王ネブカドネツァルから王に任命された経緯もあって、ゼデキヤは、民からも政府の高官たちからも尊敬されず、その権力基盤が脆弱でありましたから、王はこの役人たちの申し出を毅然とした態度で退けることができず、エレミヤの処分を彼らの言うがままに委ねてしまいました。

役人たちはエレミヤを再び捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろしたといわれています。「水溜め」は直訳すれば「穴」で、この語は旧約聖書において、死者の場所を象徴する「墓」と訳されることの多い語です。そして、そこから救い出すことができるのは神のみとされています(イザヤ38:18、詩編28:1)。幸い、雨の降らない乾季であったので、穴の底には水がなく泥がたまっている状態であったので、エレミヤは一命を失うことがありませんでしたが、年齢が、既に60歳代半ばに達していたとことを考えると、泥土に沈むことは、それだけで命の危険を意味していました。役人たちは、エレミヤの命を直接奪うことをせず、釣鐘型をした穴にエレミヤを投げ入れれば、そこから自力で上がってくることができないので、そう長くは生きられないとの判断で、それを行ったと考えられます。

エレミヤが穴に投げ入れられたことを聞いたクシュ(エチオピア)人の宦官エベド・メレクがゼデキヤ王にエレミヤの救出を嘆願せず、彼が救出しなければエレミヤはそこで最期を迎えていたかもしれません(7-9節)。エベド・メレクという名は「王の僕」を意味します。エレミヤを穴から救い出すのに、彼以外に男性が三,四人もいればできます。ゼデキヤ王が「三十人の者を連れて行くように」命じたのは、エレミヤに敵対する者に見つけられ、それを阻止されそうになった時に対処するに十分な人数を連れて行くようにという意味が込められていたかもしれません。

エベド・メレクは、老齢のエレミヤの体が傷つかないように、「古着とぼろ切れを脇の下にはさんで、綱にあてがい」(11節)、エレミヤを穴から救い出しました。しかし、「穴」から救い出すのは神であるという旧約聖書の信仰から、究極の救出者は神であるという理解がこれを読む者には求められています。エレミヤを助けたエベド・メレクには、後のエルサレム陥落の日に、救い出されるとの主の約束を与えられています(39章15-18節)。

このように1-13節までの叙述には、エレミヤを通して語られる主の言葉をめぐって、それを拒絶しようとする役人たちと、これに聴従して命を選ぼうとするエベド・メレクの態度が対照的に描かれています。

エレミヤは、エベド・メレクによって穴から助け出されましたが、相変わらず監視の庭に留めて置かれ、その行動は常に監視されていました。ゼデキヤ王は、再びエルサレムを包囲しに攻めてくるかもしれないバビロンを恐れ、また、宮廷内にいるエレミヤを目の敵にしている反バビロン派の目を気にしながら、エレミヤの言葉を聞きたいという思いを抱いて不安な時を過ごしていました。ゼデキヤ王はこっそりとエレミヤに会うため、使者を遣わして、エレミヤを主の神殿の第三の入り口にいる自分のもとに連れて来させました。そして、エレミヤに「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」と言ったと14節に記されています。このゼデキヤ王の言葉は、直訳すると「わたしたはあなたの言葉(ダバール)について尋ねたい。言葉をわたしから隠さないでほしい。」となります。この場合、ゼデキヤ王がエレミヤに求めた言葉とは、主の言葉です。信じきれないにもかかわらず、これを求めねばいられない弱い人間の姿がここに描かれています。

エレミヤはこれまで、何度もゼデキヤ王に主の言葉を告げてきました。しかし、いずれの場合も、ゼデキヤが主の言葉に真剣に聞き従ったことはありません。そればかりか、ゼデキヤ王はエレミヤの言葉を真っ向から否定しようとする役人たちにエレミヤを預けた王の卑劣な行為(5節)を思い起こして、エレミヤは、「もし、わたしが率直に申し上げれば、あなたはわたしを殺そうとされるのではないですか。仮に進言申し上げても、お聞きにはなりますまい。」(15節)と答えています。

ゼデキヤは、この厳しいエレミヤの答えに対して、創造主の名にかけて、エレミヤを殺すことも、エレミヤの命を狙う者に引き渡すこともしないと誓いまでして、自分にとって都合のいいことをいってくれるのを期待して、エレミヤに言葉を求めました。しかし、エレミヤの答えは変えられることはありません。「もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」(17、18節)と、エレミヤは、バビロン軍に敗れることは不可避であるから、進んで投降して、生きる道を選び、都も火で焼かれずにすむ道を選べ、とゼデキヤ王に告げているのであります。

このエレミヤの言葉に、ゼデキヤは率直に苦衷を打ち明けています。既に逃亡してバビロン軍の側についている者のところに、もし引き渡されることになると、無謀にもバビロンに反逆を企て国家の滅亡を招いた裏切り者として、なぶりものにされて殺されることになる、とゼデキヤは打ち明けています(19節)。

エレミヤは、アモスのように迷いを知らぬ預言者ではありません。民の弱さを負いつつ苦悩する預言者でありました。だから、ここではゼデキヤ王の懸念を本気で受け取り、その苦衷に、それを取り除くやさしい答えを与えています。そして、自分の命のことだけでなく、王宮の女たちや子供たちのことを思いやるように王を説得しています。戦争の痛ましい犠牲者となるのは兵士たちだけでありません。むしろ、兵器を何一つ持たない女や子供たちのほうです。それが戦争において常に起こることです。その悲劇的事態に至らぬよう降伏することは王にとって屈辱ではなく、本当の勇気がいることです。しかし、それは英雄的な勇気ではなく、主の言葉に聞く者としての勇気として求められています。

主の言葉を拒否するなら、ユダの王宮に残っている女たちは皆、バビロンの王の将軍たちのところへ連れて行かれる。そして、「あなたの親しい友人たちはあなたをいざない、説き伏せた。あなたの足が泥に取られると背を向け、逃げ去った」(22節)、とエレミヤは告げ、哀歌を歌っています。これは、お前は最も親しい者に裏切られたという嘲笑の歌です。ここに用いられている「足が泥にとられる」という言葉は、エレミヤの苦難が神の言葉に聞かないゼデキヤに報復的に臨むことを告げています。

24節以下に、ゼデキヤがエレミヤを役人たちから守るために与えた助言が記され、エレミヤがそれに従った結末が記されていますが、これらの言葉は、ゼデキヤがエレミヤとのせっかくの会見の機会を得て、エレミヤから王としての信仰の決断を促す言葉を聞くことができたにもかかわらず、ゼデキヤ王がこれに聞き従わず、決定的な破局へと向かうことになったことを明らかにしています。

しかし、それでもエレミヤは占領されるまで監視の庭に留め置かれ、占領された時も、そこにいたことも伝えています。神の言葉に聞かない者がいるその中に、なお神の言葉が留まる。それは実に皮肉なコントラストですが、そこにまた一つの希望が示されています。それは、御言葉に聞き従わない王と国は滅んでも、この国には神の言葉を語る預言者が残るという希望です。

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