申命記講解

5.申命記5章22節-6章3節『神の言葉を取り次ぐ仲保者モーセ』

申命記5章22節-6章3節において強調されているのは、神の言葉を取り次ぐ仲保者モーセの役割です。同じ出来事を記す出エジプト記19章―20章のシナイ啓示の経過と、申命記の記述は、モーセの役割について、全く違う見方を示しています。出エジプト記19章―20章は、主(ヤハウエ)が到来し、語りかけるまでの詳細な状況を叙述し、それに伴う随伴現象まで詳しく叙述していますが、申命記の報知は、きわめて簡潔に、モーセがこれから民に語り伝えようとしている戒めを聞け、という勧告で始まっています。神の壮大な啓示が下される際に、モーセは、神の言葉を取り次ぐ仲保者として、ヤハウエの言葉をイスラエルに伝授するため、ヤハウエとイスラエルの間に立っている、その姿を印象的に強調しています。申命記においては、民がヤハウエの啓示を直接的に知覚したという観点は取り下げられています。そして、モーセによって媒介されたことを強調するため、ヤハウエの啓示の直接性が緩和されています。この観点は、出エジプト記20章18節-21節にも見られます。

出エジプト記20章19節に、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」と、モーセに言った民の言葉が記され、神を見ることへ恐れが表現されていますが、申命記はこのくだりを2倍に拡大しています。民は、これ以上、ヤハウエの声を直接聞くことができないと拒絶していますが、それを、言葉を尽くして理由づけています。ヤハウエを見たものは死ななければならない、という格言は、出エジプト記33章20節、士師記6章22,23節、イザヤ書6章5節などに見られます。民の声は、24節-27節に、以下のように記されています。

「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します。」

出エジプト記20章18節と違って、申命記では、この民の要求にヤハウエ自身が答えています。しかも、仲保者を求める民の叫びをヤハウエが了承し、神を恐れるイスラエルの信仰を称賛する言葉が28,29節において以下のように記されています。

「この民があなたに語ったことを聞いたが、彼らの語ったことはすべてもっともである。どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。」

ここでは、ヤハウエ自身が、「わたしは、あなたに戒めと掟と法をすべて語り聞かせる」(31節)と述べ、モーセという一人の仲保者を通して、ご自身の意思を伝達することを裁可しています。仲保者として神の意思を告知するこの全権は、モーセからヨシュアに移譲され、最終的には申命記の説教者たちにも、委譲されています。しかし、同胞の中から立てられた預言者に与えられた使命と、その預言者の語る言葉を聞く民の聞く態度の在り方が、厳しく規定され、真実を語る預言者の基準までが明らかにされています(申命記18章15節以下)。申命記18章18節-22節を以下に記します。

「『わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。』あなたは心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。」

申命記が語っている時代は、預言者の職務に関して、既に、雑多な悪しき経験を重ねてきた時代です。「わたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語る」偽預言者の存在を知っている時代です。その経験とは、預言者は、必ずしも常に、その正統性をヤハウエによって与えられた権能に基づかせることができない、ということを認識している時代です。エレミヤは、彼の時代にあって、ハナンヤという偽預言者との対決の中で、その苦悩、その判断の道筋を示しています(エレミヤ書28章8節-16節)。

この経緯を伝える申命記の報知は、史的記録というより、全く神学的な記述です。神の意志、啓示伝達は、民に直接なされるのではなく、預言者、祭司、説教者という仲保者を介してなされることを神学的に説明しています。モーセの様な預言者としての働きを、それぞれの時代に生きる説教者が担うのです。その説教者は、モーセを通して啓示されたという、神の言葉である「申命記」を語り伝える義務と責任を負うものとされています。32節の「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。」という言葉は、民に向けられたものでありますが、神の言葉を取り次ぐ仲保者として立てられている、それぞれの時代を生きる説教者にも求められている姿勢でもあります。

新約聖書は、モーセのような預言者として来られたイエス・キリストとその弟子たちに、この約束の成就を見ています。

今日与えられた言葉から、現代の教会が説教者をもつことの意味を考えることが重要です。説教者は、教会的手続きを経て、神の啓示による書、聖書に記された神の言葉を取り次ぐ務めに召された選ばれし人です。しかし、主の民である教会員及び主の道を求める求道者に、その時代にある、彼らが惑わされている異教的習慣や異教的礼拝観が常に持ち込まれる危機の中で、神の言葉、聞く者を命へと導く純正の福音を如何にして語りうるかを、今日の御言葉から聞くことが大切です。教会は、今日の言葉から自分たちの命を育む説教者をどのように迎えるべきかを、これらの言葉から聞くことが求められています。

旧約聖書講解