エレミヤ書講解

7.エレミヤ書3章19節-4章4節『真の悔い改めへの招き』

選びと土地の取得は、契約においてイスラエルに約束された中心的な内容でありました。この神の決定は、たとえ民の不信実によって神の期待を裏切ったとしても、簡単に変えられることがありません。契約における神の不変の意志(契約の愛と恵み)が民を悔い改めに導くものであることがこの箇所において明らかにされています。それを信仰の目で見ることが私たちに求められています。

エレミヤは 、神の特別な愛をその呼びかけにおいて表現しています。「お前には」(19節)は、女性形です。ですから、呼びかけられるイスラエルは娘として呼びかけられています。相続法的には息子たちは娘たちに比べて断然優位に立っていました。その息子たちと同等に娘であるイスラエルに扱うという比喩がここに語られています。ヤハウェの嗣業である素晴らしい地を相続させるという比喩によって、神は息子としての権利をイスラエルに与えるということが、はっきりと宣言されています。

土地は限りのない神の愛の証として与えられます。神は愛をもって、自ら栄誉を与えたこの民に父としての心をわからせ、そこに繋ぎとめようとされるのです。ただこの意味においてのみ、土地は神の聖なる遺産でありました。だからこそ、愛と誠実をもってそれに応える義務を民は持っていました。

このような神の愛を踏まえてはじめて、民の不信実の愚かさと離反の罪の意味が明瞭となります。イスラエルが神から離反したのは、イスラエルが神を全く誤解し、人間の本質を捩じ曲げてしまったためです。しかし、神はイスラエルの不信実を語り明らかにする中にも、愛を貫き通しておられます。神の愛は裏切られても、消滅しません。むしろ、民の悔い改めにおいてさえ、それに先行して働いているという、驚くべき事実を21節以下に見ることができます。

裸の山々に声が聞こえる
イスラエルの子らの嘆き訴える声が。(21節)

預言者の耳は微かな嘆きの声さえも感じとるほど敏感です。高き所での祭儀の喧騒の中から発せられる、イスラエルの微かな嘆きの声をエレミヤは聞き出しています。エレミヤはこの声を、迷い子が自責の念にかられて、何とかして家に帰りたいと思ってこみあげる泣き声だ、と解釈しています。

このような深い洞察は、苦しみの共感を抱く者にのみ与えられます。そしてそれは、民が悔い改め始めるやいなや赦し受け入れる腕を広げ、救い主の手をさしのべられる神の愛を知る信仰から生まれた洞察です。罪は神にしか癒しえないのです。それを信仰において理解するとき、そこには既に福音が響きわたっていることが見えてきます。民の側から罪の告白が発せられる前に、神はその言葉を理解し、まだ神から離れている民を、愛をもって迎え入れようとされます。丁度、ルカ福音書15章に記されている放蕩息子を迎え入れる父親のように、神は民を赦し迎え入れられます。神はこのときの来るのをただ一心に待ち望んでおられます。このとき、神のことばは良い土地に蒔かれます。そして、蒔かれたことばは働いて、神のことばに民を応答させます。率直でありのままの罪を告白するように。しかし、先行するのは神の恵みです。この先行する神の恵みが民の立ち帰りを導くのです。

22節後半からの告白は、礼拝祭儀において用いられた式文のことばです。それは、神の恵みの選びに基づいてなされています。この告白により民は自らの罪をより深く見つめることが可能とされます。

23節において、決して消え去ることのない神の救いの意思を知ることによって、はじめて民は眼を開かれることが告白されています。こうして民は、救いは神のもとにのみ見出されるものであることを悟ります。高き所でのバアル祭儀は感覚を麻痺させる幻想にすぎないことを民は悟らせられます。高き所での喧騒極まりない祝祭は官能をかきたてますが、深いところから湧き上がってくる神の救いを切望する声は、バアル祭儀の喧騒でもかき消すことはできないと悟らせるのです。

このような存在の深みを認識することにおいて、民は自分がいかに貧しく、欠乏の中にいたかを知るに至ります。そして今や、持てる物をバアルに捧げたことが全く無意味であったことを認識するに至ります。バアルは、期待した祝福を増すどころか、逆にイスラエルの大切なものを飲み尽くしてしまったと25節で告白されています。

バアル宗教に限らず異教宗教は「やるからよこせ」式の宗教の勘定精算を基礎としています。しかし、その結果は全く哀れなものでしかありません。それに走る者は単に被害を受けるだけでなく、恥辱をも加えられます。まことの神は、自分たちが背いているときにも愛をもって臨んでおられることを知って、イスラエルはその罪責の念にかられました。そのときはじめて、民はその内面において神に平伏すものとされるのです。

このようにして罪を告白する民に、救いを約束する神の応答が見られます。そして、3章22節の勧告が再び取り上げられ、4章1、2節でさらに展開されています。

まことに神の恵みがすべてに優先しています。悔い改めた民が立ち帰るのを神は赦し受け入れられるのです。赦しは、ただ神の愛の中にのみ基礎づけられています。だから、真の悔い改めは、罪を認識することによって喚起される単なるくずおれた感情以上のものです。それは、ただ神の恵みだけが拠り所であるということを、心から了解することです。この了解が身を正し、厳かな感動を引き起こし、真剣な悔い改めの意思を燃え上がらせるのです。

だからといって、それがそのまま人間存在を神との関係において、一変させる悔い改めの決定的行為になるわけではありません。

悔い改めは、行為を通して現実のものとなります。悔い改めは先ず内面において起こるというのは本当です。しかし、内面の変化だけで行為の伴わない悔い改めと言うのは本当の悔い改めでありません。それまでの偶像崇拝を徹底的に捨て去り、別れを告げることが求められます(4章1節)。そして、「真実と公平と正義をもって」神の意思に従う生活を伴なうものとなるまで変わることが求められます(4章2節)。ヤハウェに対する真実の誓いを再び虚偽となさず、日常の行為を通して真実と誠実とを明らかにしてゆく生活を実践することによって、悔い改めは現実のものとなります。こうしてはじめて、イスラエルには、父母に約束された契約に基づく祝福が実現することが明らかにされます。

即ち、信仰における真実と服従を表わすとき、はじめて、イスラエルの選びが世界に対してもっている「諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(4章2節後半)という、救済史的な課題が成就されるのです。神は全世界の救いのために、この民を選ばれたのです。イスラエルが世界の諸民族にもたらすのは、神の祝福と神の栄誉であることがここに明瞭に表明されています。

エレミヤが描く救済史の未来絵巻は、世界的な広がりを持つ神の約束の成就という広い視野の中に収められています。

しかし、エレミヤは、このように未来に予見されるイスラエルの改悛の祝祭という堂々とした未来図に、「ユダとエルサレムの人々」に対する特別な警告をつけ加えました。ユダは、悔い改めることによって迫り来るヤハウェの審判を回避しうる可能性を持つというかぎりにおいて、かつての北王国イスラエルとは異なる状況にありました。だから、ユダに、勧告と警告を与えることはまことに時宜を得たことでありました。

3節において、ホセアもみられる定住農民の中で見られた開墾の比喩が用いられています。定住農民の開墾の比喩は、新たな出発、即ち宗教的な生活への完全な方向転換としての悔い改めの要請を物語っています。「茨の中に種を蒔くな」という警告は、古くから身についてしまっていた習慣によって、悔い改めようとする正しい意思を窒息させないための警告です。姑息で継ぎ接ぎだらけの一時しのぎの方策は、すべて行き詰まることになるとの警告がなされています。聖書の語る悔い改めは破れを繕うことではなく、根底から神に立ち帰る新たな出直しです。

4節で、この新しい出発は、心のあり方を変えることによって、内面から始まるものであることが示めされます。祭儀における割礼という儀式はヤハウェへの帰属を外面的に刻印するに過ぎません。同じように、律法を表面的に完全に行うことによって、人間に対する神の要求が満足させられるわけではありません。神の求める悔い改めは、心を完全に神に委ねきることによって満たさせられます。それによって神の戒めは果たされることになります。エレミヤは人間の考えでは解きえない神と人間の働きの相互の深い関わり合いを「新しい心」と呼びますが、これは神が人間に与える賜物であり、要求であることを語っています。31章31節以下においてエレミヤはそれを明らかにしております。「新しい心」とは、神が人間に与える賜物です。この事実が、エレミヤの語る悔い改めの要求を恐ろしく真剣なものにしています。なぜなら、神の「怒り」は神の恵みの裏返しだからです。従って、もしユダが、今なお自分たちを守っておられる神の恵みの期間を無視して踏みにじり続けるなら、その恵みの背後に審判が待っていることを覚悟しなければなりません。

エレミヤは神の恵みの意思を絶対的に確信していました。しかし、民の悔い改めの意思については、果たして民がこの恵みを真剣に受け止めようとしているのかどうか、確信しえないでいました。だから、エレミヤはユダに対して強烈な勧告と警告を語りました。それは、未来に向けての安易な慰めを遮断する、審判の可能性を見据えた勧告と警告でありました。

このエレミヤの悔い改めへの勧告はまた、わたしたちにも向けられています。実りをもたらさない茨の中に種を蒔くような生き方ではなく、心の包皮を取り去って、心から神に立ち帰り、主の真実と公平と正義をもって新たな出直しをするものとなることが求められています。そして神は、そのように神に立ち帰るわたしたちを通して、諸国民は祝福を受けるとの約束のもとに置いてくださいます。この希望のもとに共に歩みたく思います。

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