エゼキエル書講解

12.エゼキエル書14章1-11節『悔い改めを求める神の審き』

8章には、エゼキエルの前に長老たちが座っていた時に、エゼキエルが見た幻について記されています。エルサレム神殿の奥深くまで、異教の偶像が置かれ、その偶像崇拝実行の中心に長老たちがいたことも明らかにされています。そこは、ダビデの血筋を引く王国ユダであるのにイスラエルと呼ばれています。その様に表現することで、滅びた北イスラエル王国と同じように、偶像崇拝にまみれていたユダ王国の現実が明らかにされています。勿論、彼らは、あからさまにヤハウエに対する信仰を全く捨ててしまっていたわけでありません。公には、主の民の指導的地位を持つものとして、ヤハウエを礼拝する人々でありました。しかし、「闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で」(8:12)偶像崇拝を行う、分裂した信仰に生きていました。前621年、ヨシヤ王が宗教改革を行った時は、神殿の内奥までに達するまで異神受容が広まっていました。しかし、早死したヨシヤ王の後、昔の異神崇拝が復活しました。民の間では、家に異教の偶像が持ち込まれ、真の主なる神への礼拝とともに、それらの偶像崇拝がはびこっていました。エレミヤもエゼキエルも、これらの事態に激しい憤りをもって、その悪しき道からの断絶を訴え続けました。

しかし、時の経過とともにこの二股信仰は根強く息を吹き返す始末でありました。エゼキエルに課せられた主からのつとめは、この民の間に蔓延する不真実な信仰と厳しく対決することでありました。

14章において、エゼキエルの下に訪ねてきた長老たちとは、「偶像を心に抱く」(3節)人たちでありました。「偶像を心に抱く」は、文字通りには「偶像をその胸に登らせる」という意味です。彼らは自分たちの将来の運命についていつも不安を抱いて生きていました。そして確信を持てない将来のことについて、司牧的な務めを持つ預言者から、その答えを聴くためにやって来たのです。しかし、彼らは、エゼキエルを主の真実な預言者として認め、その言葉に真剣に聞こうとしてやってきたのではありませんでした。自分たちに都合のいいことを語ってもらうために尋ねてきたにすぎないのです。それは、彼ら自身の主なるヤハウエに対する態度を表していました。

主がエゼキエルに告げた言葉は、「わたしは彼らの求めに応じられようか」(3節)といって、主を礼拝しながら他の偶像に心を向け礼拝をする者を、「わたしから離れ去る」(5節)行為であることを明らかにしています。それは、主の民としての本質を失う破壊的行為です。申命記13章には偶像崇拝に対する厳しい裁きが語られています。それには死以外にないことが告げられています。イスラエルに見られる真の神と異神に対する二重礼拝行為は、神の御前からの追放しか残らない、神との交わりを終わらせるものでしかありませんでした。

しかし、この厳しい神の拒絶の審きの言葉は、ただ預言者エゼキエルとの対話の中だけで示されています。長老たちは、一言もそれに口をはさむに値しないものとして、彼らの心の本性を明らかにされ、主の前に偽りを語るペテン師としてその場に立たされ、耳を傾け続けなければならない者として立たされています。「わたしは彼らの求めに応じられようか」は、「わたしが本当に彼らに尋ねられるというのか」(ATD)という、主の問いかけで、偶像礼拝者には主なるヤハウエの言葉が拒まれていることを預言者自身の心の奥深くに語りかけるものです。その問いは、神の尊厳を軽んじる者に、いかなる妥協も許さぬ神の厳しい意思が明らかにされています。

しかし、5節には、主の審き、イスラエルの悔い改めを求める言葉であることを明らかにしています。主がイスラエルの心を再び捕えるためのものであることが明らかにされています。主の民として選ばれたイスラエルが他の神々へ向かう、そのイスラエルの心をつかもうとされる神の変わらぬ愛が、なお示されています。

このような神の不変の愛を示しつつ、主なるヤハウエは、他の神々へ心を向けることに対しては、厳しく罰することを既に明らかにしておられます(出エ20:3-5・23、レビ19:4、26:1、申5:8,12:3、27:15)。

6節に、己が民を連れ戻そうと悔い改めの招きをする神の愛が語られています。エレミヤにおいては、悔い改めへの招きは形を変えて絶えずなされていますが、エゼキエルにおいては、これが初めてです。エレミヤ同様、エゼキエルも、厳しい審きの言葉の背後に、神の救いの意思がひかえていることを示します。エゼキエルは、このように神の救済意思を示した上で、それを踏みはずす者らへの判決を告げています(7節)。

8節には、警告の「しるし」のことが語られていますが、それをまさに警告の徴(ヘルマン)、あるいは偶像礼拝者を認識する徴(ツインマリ)、というより、むしろイスラエルを他の神々の勢力圏より引き出し、その独占的な力によって己に結びつける神の意志の絶対妥当性を認めさせる徴である、とアイヒロットは述べています。大切なことは、法的な処罰規定の問題ではなく、偶像崇拝者によって脅かされているイスラエルの神に対する新たな関わりです。

主は、ご自分の民に対して持つ主権に疑問をさしはさむことを、一切排除されます。このことを明らかにする預言者の責任が、9・10節において明らかにされています。

神の明確な禁止を前にして、神の意志を告知すべき者が混乱に陥ることは、理解しがたいことです。だからそれは、神ご自身による預言者に対する幻惑としてしか説明がつきませんので、9節において、その様に説明されています。申命記13章3節に、預言者が偶像礼拝へと誘惑する際に、それを信用させるために奇跡を用いることが述べられています。その場合も、主がその民を試すためのもので、それが主(ヤハウエ)に由来するものであることが告げられています。

この幻惑から惑わされないで、倒されないようにするためには、イスラエルは、神の真実の言葉に立ち帰り、目覚めていなければなりません。主なる神の下から迷い出て、二度と自分を汚さないようにするために示された、預言者の堕落というしるしを、神から出たものとして受けとめ、理解することは、とても重要です。その尊い務めを負う者でさえ堕落する現実を知り、それがまた民のための警告として語られていることを知ることに、重要な意義があります。

この警告を聞き、その誤りに陥らない者に向かって、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という、慰めに満ちた主の約束が語られています。この慰めを聴くことができるのは、主の真実の御言葉に、絶えず目覚めて聞く者だけです。そのことを覚え、教訓とすることが大切です。

旧約聖書講解