列王記講解

28.列王記下15:1-16:20『栄光から挫折の時代へ』

北イスラエル王国のヤロブアム二世(在位前787-747年)とほぼ同時代を生きた南ユダ王国の王はアザルヤ(在位前787-736年)です。アザルヤは、13、30節では、ウジヤと呼ばれています。アザルヤは誕生の時の名で、ウジヤは即位した時の名前かも知れません。正確なことはわかりません。彼の父アマツヤは、「父祖ダビデほどではなかったが、父ヨアシュが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」(列王下14:3)という評価を与えられていますが、アザルヤは、「父アマツヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」(15:3)といわれていますので、ダビデほどではなかったが、条件付で「主の目にかなう正しい」王であったとされています。ダビデと同等の評価をされている王は、ヒゼキヤ(18:3)とヨシヤ(22:2)だけです。

☆年表の年号は紀元前

ウジヤ王もまた、北イスラエルのヤロブアム二世と共に、領土回復と経済発展に尽力しました。彼はエイラトを要塞化してユダに復帰させたといわれています(列王下14:22)。これは彼が父王アマツヤのなし得なかったエドム人勢力の排除と海上交易路の確保に成功したことを示しています。歴代誌下26章6-8節によれば、アザルヤは、西のペリシテ人や東の遊牧民、アラビヤ人、メウニム人を討ったといわれていますが、これはエジプト及びアラビアに下る通商路を確保するためでありました。アザルヤはまた、軍事技術や兵制を改革し(歴代下26:11-15)、防衛施設を補強し(歴代下26:9-10)、農業や牧畜を振興したと言われています(歴代下26:10)。このようにアザルヤは、北のヤロブアム二世と共に、ダビデ・ソロモン時代に匹敵するイスラエルの経済的繁栄の時代を築きました。

 

しかし、「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(5節)といわれています。アザルヤは隔離された理由はここに定かにされていませんが、歴代誌下26章16節によれば、「彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした」ためとされています。祭司だけに許されている主の神殿での香をたくつとめを、アザルヤは高慢になって犯したため、主の怒りを買い、「重い皮膚病」を患うことになったとされています。列王下5章に登場するナアマンは重い皮膚病にかかった後も、軍の司令官として公の生活を続けていたことを考えると、アザルヤが王であるにもかかわらず、「隔離された家に住んだ」ことは、彼の病状が深刻であったと想像できますが、それはむしろ、「重い皮膚病」は王が持つシンボリックな役割に合わないと思われていたからかもしれません。いずれにしても、アザルヤが重い皮膚病にかかってからは、王の息子のヨタム(在位759-744年)が摂政を務め実務を行いました(3、32-35節)。エイラトのそばのエジオン・ゲベルからは、ヨタムの印章のついた指輪が発見されています。

 

アザルヤの晩年は、アッシリアがティグラトピレセル三世の下で体制を立て直し、シリア・パレスチナに再進出してくる時期に重なります。ティグラトピレセル三世の碑文に言及されているヤウディの王アズリヤウがユダの王アザルヤであったとすれば、かつての北王国のアハブがそのようにしたように、北シリアで戦われた対アッシリア戦争にユダも派兵したものと思われます。

 

アザルヤが治めた時代、ユダでも北イスラエル同様、きらびやかな繁栄の背後で宗教的・社会的退廃が進行したことは、次の時代の預言者イザヤやミカの言葉から推し量ることができます(イザヤ1:11-17、21-23、3:16-26、5:8-12、ミカ2:1-2、3:1-12など)。

 

むなしい献げ物を再び持って来るな。
香の煙はわたしの忌み嫌うもの。
新月祭、安息日、祝祭など
災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを
わたしは憎んでやまない。
それはわたしにとって、重荷でしかない。
それを担うのに疲れ果てた。
お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。
どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
お前たちの血にまみれた手を
洗って、清くせよ。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ。(イザヤ1:13-17)

 

北イスラエル王国の太平の世は、前747年のヤロブアム二世の死とともに終わります。彼の死後その息子ゼカルヤが王となりますが、彼は僅か6ヶ月間王位にあっただけで、ヤベシュ・ギレアド出身のシャルムがクーデターを起こし、彼に民の前で暗殺されてしまいます。こうして北王国では、再び血で血を洗う王位簒奪が繰り返すことになります。

 

そして、クーデターで王位を簒奪したシャルムも1ヵ月後に、ティルツアで勢力をまし加えたメナヘムによって倒されます。メナヘム(在位747-738年)の時代に、ティグラトピレセル三世(列王下15:19ではプルと呼ばれている)の率いるアッシリアがシリア・パレスチナへの遠征を開始しました。メナヘムは前738年にダマスコ、フェニキア諸都市と共にティグラトピレセルに貢物を納めました。彼はそのための銀を国内の土地所有者からの人頭税でかき集めたと言われます(列王下15:19-20)。

 

メナヘムの後を継いだ息子のペカフヤ(在位前737-736年)もまた在位僅か2年目に臣下のペカの手で暗殺されています。

 

ペカ(在位前735-732年)のクーデターは、メナヘムが親アッシリア的政策を推し進めていたことへの反発が一番大きな動機として考えられます。そのことは、王位簒奪後直ちに彼が、ダマスコのレツィンと結んで反アッシリア同盟の結成を企てたことに示されています。ペカとレツィンは、南ユダ王国にもこの同盟に参加させようと働きかけました。当時の南王国の王はアハズ(前744-729年)で、彼は祖父アザルヤの存命中に、早世したヨタムを継いで前744年から摂政をつとめ、前736年のアザルヤの死とともに正式に王位に就いたものと思われます。アハズは同盟加入を拒否したため、前733年にレツィンとペカは、アハズを廃位してタベアルの子を傀儡王にしようと(イザヤ7:6参照)南王国を攻撃し、アハズをエルサレムに包囲しました(列王下16:5)これがいわゆるシリア・エフライム戦争です。この混乱に乗じて、アマツヤ、アザルヤ時代以来ユダに支配されていたエドム人が蜂起して、エイラトをユダから奪回しました(列王下16:6)。西方では、ペリシテ人がネゲブやシェフェラ(ユダの西方丘陵地帯)を侵略したものと思われます(歴代下28:18)。こうして南ユダ王国は四面楚歌の状況に追い込まれてしまいました。

 

この時、預言者イザヤはアハズに会い、主にのみ信頼しその助けを求めるように説き、軽挙盲動を戒めました。有名なインマヌエル預言はこの時なされます(イザヤ7:3-16)。アハズはこのイザヤの忠告を無視して、ティグラトピレセルの下に使者を送り、貢物を納めて保護を求めました(列王下16:7-8)。アハズのこの行為は、国の独立を犠牲にすることにより延命を図るものでありました。ティグラトピレセルは、これに応えて、前732年にダマスコを討ち、レツィンを処刑して住民を捕らえ移しました(列王下16:9)。ティグラトピレセルはまた北イスラエル王国をも襲ってヨルダン東岸地方、ガリラヤ、及び海岸平野を占領し、それらを併合して、ギレアド、メギド、ドルの三つの属州に再編成しました(列王下15:29)。北王国は今や国土の3分の2を失い、首都サマリアを中心とする小国家にすぎなくなります。

 

この時、北イスラエル王国にまたしてもクーデターが起こり、ホセアがペカを暗殺してティグラトピレセルに降伏し、貢物を納めました(列王下15:30)。ティグラトピレセルは北イスラエルのペカの王位を承認しますが、北王国も南王国も、ともにアッシリアの従属国に堕すことになりました。

 

この時代の歴史をひと言で総括するなら、主への信頼に生きない、猜疑と革命の時代と言うことができます。この時代、比較的正しい政治を行ったウジヤ王でさえ、高慢になり、祭司の権能を侵す罪のゆえに、重い皮膚病を患い、主の怒りをかうことになるなど、王たちの主への背信行為が目立ちます。その王たちの不正義、背信を告発し、その歩みを正すために、神は、預言者アモス、ホセア、イザヤ、ミカを遣わしました。イザヤの預言者の召命は、ウジヤの死の年(前736年)でありました。王たちの統治の誤りは、そのまま国の滅亡につながりますが、神はその滅亡へ歩む選びの民の歴史に、悔い改めの希望への道を示すために、預言者を遣わされたのです。預言者の言葉に聞かない王たちの滅亡こそ、救いへの希望です。なぜなら、神の御声に聞かない者が滅びることは、神の御声に立ち帰る者への、その逆説としての救いが示されているからです。人は最悪の時代にも希望を見ることができますし、最善と思われる繁栄の時代の滅亡への兆しを見過ごすこともあります。この時代は、そのいずれをも併せ持つ時代です。主の御声を聞き分けることができるものだけが、その時代の滅びと救いの両面を見ることができます。

旧約聖書講解