エゼキエル書講解

36.エゼキエル書37章15-28節『一つとされる主の民』

37章前半はイスラエルの捕囚からの回復を、死者の復活の奇跡として描き、不退転の神の意志を明らかにしていますが、15-28節は、王国時代に生じた分断された二つの王国(ユダとイスラエル)を象徴行為によって再統合する回復が描かれています。

エゼキエルは二本の木を取り、一方には、「ユダおよびイスラエルの子らのために」と書き、もう一方には、「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれた全家のために」と書くように、主から命じられています。そして、主は、そのように書き記された二つの木を預言者の手に一本の木のように持って、その手の中で一本の木とするよう命じ、その様になるとの約束を明らかにしておられます(17節)。

この象徴行為が示す意味は、19-22節において明らかにされています。そこで主の二つの言葉が語られています。最初の言葉は、分断された民と国をふたたび統一するという神の約束と保証を語っています(21節)。第二の言葉は、主は、分裂し世界に散らされたイスラエルに属するすべての者を、諸国民の中から引き出し、再び約束の地に導き、もはや切り離されることのないように一つの民とし、一人の王の下に集結するとの約束を語っています。これらの言葉は、今まで語られたことのない、まったく新しい来るべき救いの到来を告げています。これまでエゼキエルが告げてきたことは、ユダだけの回復であると解されていたからです。エゼキエルの告知には北王国のことが一度も現れたことがないからです。

しかし、一度だけ4-8章で、エゼキエルは自分の体をもってユダとイスラエルの罪ある兄弟の民の結合について述べ、両者が罰せられる期間が同時に終わることを告げています。このことは、エゼキエルが既にイスラエルの12部族が新たに一つとなることへの関心を向けていたことを示しています。

エゼキエルのこの未来眺望はどこから来たのか、それをアイヒロットという注解者は、エレミヤ書3章6-18節と31章で記されている新しい救いの時をかつての北イスラエルにまで広げていることへの影響と考えるべきであると述べています。

エゼキエルの未来希望は、全イスラエルの回復なしには神の救いの業は完全なものとはらないという内的な関心と深く結び付いて明らかにされています。だから、この民の選びは必ずその目標に向かわねばならないということです。

イスラエルの新しい創造に続いて、23節以下に一連の約束が語られています。約束の第一は、神によって一つにされた新しい国は、二度と隣接する国に倣って異教の神に傾いてはならず、神が民をその背信の罪から清めるために仕える道具とされることによって、神によって新たに結ばれた契約が発効するということです(23節)。第二に、その保証として、第二のダビデが王としてその職務を取り、神の戒めを十分に守ることによって新しい主の民としての生活秩序を確保する使命を遂行するということです(24節)。

そして、新しく統一されたユダとイスラエルのすべての民は、ヤコブに与えられた土地に永遠に住み、第二のダビデが永遠の支配者としてその王笏をもって、平和の契約を結び、これが彼らとの永遠の契約となり、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置くとの神の約束が明らかにされています(25-26節)。
しかしこの新しい秩序が実際に効力を発するようになるのは、この恵みに満たされた民の間に新しい神殿が立てられる時です。

8-11章において、示された神殿の幻においては、神と民との出会いの場としての神殿は、王と民の両方が神から離れたためにその尊厳を奪われ、他の神々の支配するものとなってしまったが、救いの時には、神との交わりの実現にふさわしく仕え、神が諸国の間でその名がきよめられるに至ることが明らかにされています。そこでは、神は厳格な審き手でありつつ、なお憐れむお方であることが明らかにされています。そして、神が民を清められるその業を民が見る時、彼らは自分たちが見損ない冒涜してきたイスラエルの神、真の主の本質を認識できるように導かれます。そのように、彼らの中にご自身を救いの創造者として啓示しておられることを知って、全イスラエルは主の前にひれ伏すものとなることが明らかにされています。

エゼキエルは、イザヤ書2章2-4節とゼファニヤ書3章9節の未来眺望の線上から、選ばれた民の伝道活動を神の意思が完全に実現される時まで引き延ばしています。そのようにして、神は御自ら真の認識の光を諸国民の世界に送り出されます。5章5節以下では、イスラエルの本来の民とされながら実行できないでいたことが、今や満たされます。エゼキエルが主から担わされていた任務は、諸国民の世界の中に神の新しい創造を目に見えるようにすることでありました。だがそれは、神に基づき、神によって聖化された共同体によって実現される救いの業です。それが異邦世界に光を与えるものとして描かれています。
その実現は、40―48章で描かれる神殿共同体の実現において明らかにされるものとして語られています。

エゼキエルも、エレミヤも、これらの救いを新しい契約による救いとして語り、聖霊の働きによる再創造の業として語っています。エゼキエル書37章は、前半の枯れた骨の復活と新しい神殿で主によって一つにされた民が礼拝を守る民として整えられることを約束する言葉と、後半の約束の言葉は一体のものとして理解することが大切です。枯れた骨を生かすのは聖霊の働きによると言われたのと同じように、ここでも聖霊のうちなる働きを受けて実現する真の霊的礼拝を抜きにして新しい神殿の礼拝は意味をなしません。だから、真の霊的礼拝と対にして新しい神殿の意義を考えることが大切です。

旧約聖書講解