哀歌講解

6.哀歌5章『日々を新たに』

第4の歌の終わりに「おとめシオンよ、悪事を赦される時が来る。再び捕囚となることはない」と歌われていますので、主がもう二度とエルサレムを追放することなく、赦しと解放のみが与えられるという希望が第五の歌では期待されます。しかし、この歌の最後は「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」という悲嘆の言葉で終わっています。この歌は前587年の大破局を経験したエルサレムが、なおも悲しむべき状態にあることに対する嘆きの歌であります。国の有力な指導者はバビロンに捕囚として連れて去られました。神殿と町を徹底的に破壊され、エルサレムに残っていたのは無産の貧しい人々でした。大破局から数十年経っても捕囚の民は帰ってきません。破壊された神殿も町も再建されないまま荒廃が進むばかりです。今もなお荒廃した町の惨状がこの嘆きを通して伝わってきます。

この歌の結びの言葉からは、主に見捨てられた者の嘆きしか聞こえてきませんが、この歌に希望が歌われていないと見るならば大きな間違いです。人間は本当に絶望したら、何も語らなくなります。嘆きの歌を歌うことは辛いことですが、そこになお信仰の確信があるから、それを表明する嘆きが歌われるのです。哀歌には次のような確信が表明されています。ユダに襲いかかった破局のうちにさえも、歴史の主であるヤーウェはご自身をお示しになっておられる。この破局は偶然強大な国が攻め上ってきて為された破局ではなく、ヤーウェ自身が、イスラエルの罪と背反に災いを下された結果である。それゆえ災いを取り去ることができるのもまたヤーウェのみである。しかし、それにはヤーウェへの立ち帰りが前提となる、という確信です。この確信から罪の告白と懺悔への呼びかけが、神殿の廃虚で行なわれた嘆きの祭儀の中心となりました。哀歌に見られる罪の告白、懺悔と嘆き祈る信仰には、歴史の主であるヤーウェへの揺るぎない信頼があります。

数十年間廃虚のまま残る神殿に詣で、「主よ/わたしたちにふりかかったことに目を留め/わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください」となされる祈りには、ヤーウェの歴史支配に対する揺るぎない信仰が表明されています。この廃虚の中にも主がおられ、事態を見届け、その事態を変えうる主として居給うのだという信仰があります。

もし主が、この嘆き祈る民の神であり続けるなら、この民の権利・自由喪失における悲惨は主ご自身のものであり、民が悲惨の状態に置かれることは主ご自身の栄光を汚したままになるのだという洞察があります。主がこの祈る者を民とする限り、必ずこの事態に介入されるという信仰がこの祈りに表明されています。主が自らの問題として引き受けて介入されるなら、事態がどれほど悲惨で絶望的であってもなお希望がある、とこの詩人は固く信じているのです。

だからこそ彼は2節から、自ら与えられた権利が失われ、その結果味わっているところの悲惨について嘆きつつ語ります。イスラエルはカナンの土地を取得し、自由な民として、主から賜った嗣業の土地に対する権利を主張しました。

しかし、その嗣業の土地が他国民のものとなるということは、自由民としての権利を失うことを意味していました。権利を喪失した無能者は、祭儀参加にも無資格のものとなりました。彼らの一番の悲しみは、主の前に権利を失った無資格者であるという事態に対して向けられています。

そして、3節においては父親のない孤児としての権利なき状態に目を留めています。この嘆きは、法的救済者としてイスラエルの父と呼ばれた神に向けられています。だからこの嘆きは、庇護なき子供たちを哀れんでくださいとの主への訴えとなっています。

土地の権利を失った民は、今まで自由に飲めた水さえ、金を払わないと自由に飲めません。ヒゼキヤ王がエルサレムの地下に築いた水道も、異邦の民の支配に置かれ、その水を飲むのにも税金がかけられたのかもしれません。自分たちが植えた木、育てた木さえお金を払わないと自由に取れないのです。

そして、奴隷として、首には軛を負わされ、疲れても、体を休めて憩うことも赦されない過酷な苦役につかせられているのです。

この過酷な苦役と貧困から逃れるため、エルサレムに残ることを許された民も、その多くが祖国を捨ててエジプトやアッシリアへ逃れて行き、離散の民となり帰ろうとしませんでした。そのような状態では、エルサレムの再建はますます困難となります。

この不幸をもたらした原因が7節において回顧されています。父祖たちが罪を犯したからだ、という認識のもう一方で、その父祖たちは「今は亡く」という言葉を発することによって、自分自身は罪無くして抑圧されているという告白がなされています。陵辱されている人妻や乙女たち、その罪を背負って苛酷な労働に駆り出されている息子や若者たちの悲惨の原因は、決して自分自身の罪によるのでなく、今は亡くなっていない父祖たちの罪の故である、という訴えがなされています。罪なくして抑圧されている者たちの解放において表されるべき神の義を期待し志向する信仰が、ここにも力強く表明されています。

地上の王たちの中には、この抑圧された民を解放し、その権利を回復する者はいません。この価値なき状態に終止符を打ち、土地とその権利を回復させるのは人間の力でなく、神の恵みと憐れみ以外にない、との認識がここにあります。

11-15節は、勝利者による屈辱的占領の結果もたらされた悲劇的結末が歌われています。陵辱と指導者への極刑による見せしめ、強制労働に駆り立てられる若者や子供たちの惨めな現実が歌われています。本来町の門は、長老たちに争いごとを裁いてもらう場所であり、若者が集って楽しく音楽を奏でる社交場となるはずでした。しかし、裁きをする長老の姿はなく、音楽を奏でる若者の姿もありません。この町には心を楽しませるものが何もないのです。

この嘆きの歌を歌う詩人は、7節で現在の悲惨の原因は「父祖たちの罪」にあるとだけ語りましたが、16節に、「わたしたちは罪を犯したのだ」と告白するに至ります。彼はこの破局がたとえ父祖たちの罪に対する答えであるとしても、その破局の結果の持続は、自己の罪に対する答えなのだと認識するに至ります。この洞察と深い自己吟味において、信仰は本物となります。人は神の前に自分の罪を告白することなく、本当の意味で謙遜になることはできません。罪の告白のない信仰からは、自己弁護による正当化しか生まれません。本当に神が赦してくれるようにとの祈りが生まれません。

心が病み、目が霞むほど肉体が衰え、礼拝すべき場所である神殿があったシオンの山が荒れ果て、狐たちがその上を駆け巡るのは、わたしたちが今も罪を犯し続けているからだ、とこの詩人は主の前に赤裸々に認め告白します。

この罪の告白において、シオンの荒廃に同時に目が向けられていることが重要です。失われた嗣業の土地の権利よりも、主が臨在を現される神殿が荒廃したままであるということは、イスラエルの神の栄光が失われたままである、と諸国にみなされるからです。また、たとえ神殿が再建されたとしても、神がそこにご自身を示し、すべての異邦諸民族が主の前に跪いて崇めるようにならなければ、神の栄光はやはり世界の前に隠されたままであるということになります。

そこで19-21節において、再び主の顧みを求める祈りがなされます。

「主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方」という告白は、神殿の崩壊にもかかわらず主の栄光は決して失われていないことが告白されています。主の御座とその主権とは、今も揺るぎない。その方が臨在を現し、民をもう一度思い起こし御許に立ち返らせ、その方を礼拝する交わりの生活が回復させられるところに、主の民の本当の回復があります。

この主の恵みの愛顧を求め、「わたしたちは立ち帰ります」という悔い改めの告白がなされます。崩れ去った霊的生活とその名誉の回復は、民の側の問題としては、その罪を告白し、ただ主の前に立ち帰ることしかありません。主が目を留めてくださり、主によってその名誉を回復していただく以外にないのです。

「わたしたちの日々を新たにしてください」との祈りは、失った自由と主との交わりの生活が回復されること、そこから日々新たにされる命が回復されることなくして、本当の喜びの生活は戻らないとの確信からなされる祈りです。悔い改めの生活とその喜びは、主が人間に御顔を向け、臨在を示し、新たにするところから始まります。この先立つ主の愛顧なくして、人間の真の悔い改めの生活は生まれません。わたしたちを「日々新しく」するのは、主です。わたしたちは、この主に向けて「立ち帰る」、そこに「日々新しく」する真の悔い改めの生活が始まります。悔い改めとは、わたしたちを「日々新しく」する主へ向きを変えて生活することです。

主が「日々新しく」してくださるまで、詩人は「あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました」と嘆き続け、辛抱強くその日が来るのを待ち続けるのです。そこに彼は悲惨の中にあって希望を見出しているのです。そしてそれは、わたしたちも学ばなければならない祈りでもあります。

この祈りが答えられるのは、主イエスにおいてです。この祈りは、十字架のイエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という祈りにつながっています。わたしたちの罪を背負い十字架に死なれた主イエスは、神の見捨てをご自身の身に引き受けられたのです。そして、神はこのイエスを墓より復活させられました。「日々を新しくする」救いは、罪を犯した者を見捨てるほどに激しく怒る、神の怒りを徹底して受ける者に与えられることを、主イエスの十字架と復活を通して教えられます。「あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌5:22)という祈りを囲い込んでいるのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という主イエスの祈りです。この事実を覚える時、この嘆きは希望の祈りとなります。

旧約聖書講解